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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(七七)

 使徒パウロの書簡を見ると、最初の部分に『私は生まれ出る前から、神様によって選び分かたれた者である。』という表現を使って、わたしは神様に選ばれた者だ、と書いています。
 パウロの書簡を読みますと、「神様の選び」ということが大変強調されていると同時に、自分に与えられた意志を使って、神様を選ぶということも強調されています。


 「選びの教理」を強調するグループと「人間の意志」を強調するグループがあります。私達は一つの神学に偏って、そればかりにかたまってはいけないということでしょう。
 「選び」だからと言って全然伝道しなければ、「あなた方は出て行って福音を述べ伝えよ。」というイエス様のご命令に対して、反対することになりますから、それは間違いだと言えるでしょう。


 「人間は自由な意志で」と言うならば、イエス様のお言葉の中で「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ一五・一六)とおっしゃっていますから、アルメニヤ神学の強い立場はイエス様のお言葉で崩れます。
 私たちは聖書を読んで完全に理解することはできません。
 神様に召されて天の御国にあげられた時に初めて、雲を通して見つめているような「神様の真理、奥義」というものがはっきりとわかるでしょう。


 私たちは信仰生活の中で、自分が理解できる範囲で行動していくことが大切です。「イエス様が『あなた方は出て行って福音を宣べ伝えなさい。』とおっしゃるから、私たちは出て行く。
 理解できる、できないの問題ではない。何故なら、イエス様は失われつつある者のためにその福音を伝えるように、教会に大命令をお与えになっているから。」


 「自由意志」について考えるならば、神様は人間をロボットのようにはお造りにならなかった、ということです。神様は、全知全能で何でもご存知です。
 アダムとエバが罪を犯したように人間は弱い、ということもご存知です。
 コンピューターのように初めから罪を犯さないようにセットがなされたならば誰も罪を犯さず、ただひたすら毎日、「神様、賛美します。ハレルヤ。アーメン。」とロボットのように繰り返すでしょう。
 しかし、それは神様が望んでおられることではないのです。


 仮に男性と女性が愛し合うようになったとします。男性は女性に向かって「私はこれから仕事に行くから、あなたはこのテープレコーダーを聞いていなさい。」と言って出て行きます。
 女性がテープレコーダーのボタンを押すと、「私はあなたを愛しています。I(アイ) love(ラブ) you(ユー). I love you.」と、ずっと繰り返し聞こえてきたら、女性はそれで嬉しいでしょうか。「何よ!こんなのばかばかしい!」と言って、ガチャンと切るに違いありません。(続く)

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ローマ人への手紙(七六)

 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。」ローマ書五章一二節


 ローマ書五章一二節からの箇所は、様々な神学論争があり、多くの教派が生まれてきました。「なぜ人間が罪を犯すのか」「アダムが犯した失敗がなぜ現代の私達に影響をもたらすのか」というテーマについて多くの学者が論争を重ね、いろいろな考えがそこから生まれてきました。そこで、聖書全体の中から、罪の現実、罪のもたらした結果を見ながら、どのようにしてその罪を背負った人間一人一人を神様が救おうとして下さったか、ということにポイントを置いて考えていきましょう。


 このローマ書の解釈において、少なくてもクリスチャンの一つの信仰の捉え方として、大きな流れがあるということを覚えていただきたいです。

 まず、人間の自由意志に関してカルヴィン主義というグループがあります。カルヴィンという聖書学者はたくさんの注解書を書いていますが、日本でもそのカルヴィン主義の神学に帰依する人たちがいます。もう一つは、アルメニヤ神学という神学の旧体系でこの二つがキリスト教会における大変大きな神学の流れになっています。


 カルヴィン主義は特に神様の選びを強調します。そして、穏やかな立場をとる人と極端なハイパー・カルヴィニズムという立場をとる人とがいます。
 だいたい長老派の教会(プレスヴィテリヤン)が、カルヴィン主義の流れを汲む、と言われています。人間の自由意志よりも神様の選びを強調し、たとえ私たちが伝道しなくても選ばれている人は必ず救われると考えます。ですから、カルヴィン主義の教会は、あまり海外宣教や福音宣教に熱を入れないとか。


 カルヴィン自身が「人間が宣教するなど、とんでもない。越権行為である。」と、存命中に書簡の中で述べています。神様がお選びになった者であれば、今は関心がなくても神様に必ず救われる、選ばれているのだからと。また、神様に選ばれていない人は、誰が伝道しても、聖書の勉強を導いても、選ばれていないから救われない、と。これはとても極端な言い方で、私達はそういう立場をとっていません。


 もう一方のアルメニヤ神学は、人間の自由な意志を大変強調します。そして、人間は自分の自由な意志によってキリストを選ぶかどうかを決める、と言います。それらについて、使徒パウロは何と言っているのか見てみましょう。(続く)

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ローマ人への手紙(七五)

 いくらか「まして」の意味がわかったでしょうか。以前、神学校で、学生に将来、教会建設をするだろうからと、教会の設計図を何度か描かせました。

 そうすると、だいたい描き忘れるのがトイレだったのです。不思議でした。献身して神学校に行き、牧師になろうとする人に教会の図面を描かせると、まず立派な礼拝堂を作り、次に牧師の事務室を作るのに、教会にとって大切なトイレと物置を欠いていたのです。


 私たちが神様に日々依り頼んでいく時に、最も大切な命、その命を救ってくださった神様は、毎日必要な食べる物、着る物を添えて与えてくださらないはずがあるでしょうか。神様は私たちを赦し、命を与え、食べる物、着る物を与えてくださいます。


 仮に、人間が太陽の光に対して電気代を払うとしたら、毎月いくらになるでしょうか。

 夏の間、電気代が沢山かかったことでしょう。神様がもし、太陽の光の料金を各家庭に請求なさったら、私たちは生きていけません。空気も同じです。人間が一月生きるために必要な量を一トンまたは一〇トンと配給を受けるなら、どんなに大きな容器があっても足りないでしょう。


 水も同じで、日本人は水のありがたさを知らないと言われています。もし、外国人たちのように水は買う物だとすれば、もっと水のありがたさを知ると思います。

 人間は、神様から人間にとって必要な空気、太陽、水などを、ほとんどただかただに近い金額でいただいているのです。私たち人間にとって神様のすばらしい愛が、私たちの必要を満たさないはずがないのです。


 「私たちは神様によって命を救われ滅びから贖い出された者として、神様にこの命をお捧げします」と使徒パウロは書きました。


 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ一二章一節)。


 使徒パウロは命令はしませんでしたが、勧(すす)めました。「あなたの体を生きた清い供物として神に捧げなさい」と。皆さんがイエス・キリストを信じて救いを頂いた時に、この体だけではなくして、自分が働いて得たお金も、自分の才能も、また自分の時間もすべて神様にお捧げするというのが当然の感謝の供物でありましょう。


 鳥や花にまさる人間として、神様は私たちを滅びの中から選び出して救って下さったのです。犬でも飼い主のために自分の生命を犠牲にすると言います。"How much more"、「まして」、人間は生涯を神様におささげできないはずがありましょうか。

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ローマ人への手紙(七四)

 「私は罪深い人間です。しかし、イエス様は私を愛して下さり、罪から引き上げて下さった。私は罪の重荷を背負ったどうしようもない、箸にも棒にもかからない人間である。

 しかし、私が十字架を見上げた時に、イエス様は私を救って下さった。私は今、食べ物や着る物が必要だが、お金がない。しかし、神様は空の鳥を養って下さり、野のユリを見よと仰せになった。まして万物の霊長といわれる私を、神様が引き上げて下さらない筈(はず)がない。」これが信仰です。


 信仰というのは、七面倒くさい議論をするものではありません。「偉大な人物は単純な信仰の持ち主だ」とボブ・ジョウンズ大学の初代総長ジョウンズ博士が、よくチャペルで強調なさいました。信仰は本当に単純なものです。

 私の信仰生活は、年を経るにしたがってだんだんシンプルになり、余分な飾りがなくなってきました。本当に神様の一つ一つの御言葉があれば十分という状況になってきました。


 若い頃は悩み、あれやこれや沢山の注解書を読み、学べば学ぶほど混乱するばかりでした。けれども、ローマ書を勉強することにより、本当に濡れ紙をはがすように神様の奥義がどんどんわかってきて、飛び上がらんばかりの喜びに満たされたのです。今でもローマ書を勉強すると心が躍ります。皆様にもその喜びを味わって頂きたいのです。


 ローマ書五章に「まして」という言葉が何回あったでしょうか。若い人は、サッカー・チームやテニス・クラブ、あるいは野球チームに入りたい時、いろいろとおねだりしたことがあったと思います。お父さんが、「野球チームに入ったのか。今度ユニフォームとミットを買ってやろう。」と言ってくれた時、あなたの手元にボールがなかったらどうするでしょうか。

 高いユニフォームと上等なミット、あるいはグローブを買ってくれたのだから、ましてボールを買ってくれないはずがあろうか、と思うでしょう。上等なグローブがあっても野球はできないのだから、ましてボールを買ってくれないはずがあろうか、と考えるのが普通でしょう。

 「神様が私たちの命を救って下さった。まして、毎日必要な健康のこと、食べること、寝る所、あるいは自分の将来のことなどに対して目を留めてくださらないはずがあろうか」です。そして、決してそんなことはありませんね。


 以前、ヨーロッパの貴婦人たちは、宮廷でパーティーやダンス・パーティーがあると、竹で造った輪をスカートの中に入れていました。どうして裾の広がったスカートをはいたのでしょうか。

 本当かどうかはわかりませんが、香水で有名なある国の宮廷は、立派な御殿、宮殿があるのにどこにもトイレがなく、宮廷の前の庭で用をたす時に、あの竹の輪の中でちょっとしゃがんだと何かで読んだ記憶があります。皆さんが家を建てる時に、居間、書斎、台所が必要だといってお金をたくさん使うでしょう。まして、絶対必要なトイレを作らないはずがあるでしょうか。(続)

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