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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(八一)

 皆さんにおすすめしたいことは、もっと人間同士を知るということ、人間同士のふれあいを求めていくということです。なぜなら神様は人間をそのようにお造りになったからです。
 皆さんがパソコンだけに打ち込んでいると、だんだん信仰から離れていく可能性があるのではないでしょうか。


 というのは、パソコンに打ち込めば「ああ、ほっとした。」で終わってしまうからです。正直に考えていただきたいです。自分が悩み、苦しみを持っているときに、Eメールを打って「ああ、すっきりした。」という感じを持たないでしょうか。
 私が言いたいのは、「パソコンを使うな。」ではなく、「パソコンよりももっと大切な神様に対して、イエス様に対して自分の苦しみを訴(うった)え、イエス様との霊的な交わりをいただくことを優先的にしなければいけない。」ということです。


 パソコンのような「道具」に打ち込むのではなく、まず「神様」に向かって声を上げる、祈りこそが大事なのです。また祈る時は、無言ではなく、小さな声であっても「神様、私は今こういう風に苦しんでいます。」と、ちゃんと声に出して祈り、心から神様との交わりを求めます。これが、祈りです。


 神様は人間が自分の意志を持って神様に従っていくことを願っておられます。


 私はかつて何度となく、青少年の問題に課題が与えられて「青少年犯罪はどういう風にして起こってくるのか。」ということを時間をかけて勉強したことがありました。
 今、中流家庭、あるいは上流家庭の子供が犯罪を犯すケースが増えています。以前、有名な大学の付属高校の生徒達が利用する商店街の文房具屋の店主が言っていました。「毎週のようにあの有名な大学の付属校の女の子が数人で来て、万引きをしていくんです。」と。


 その子たちは東京から通ってくる中流、上流家庭の子弟達です。その子たちが万引きをしてつかまると、「払えばいいんでしょ、払えば。」と開き直り、親が警察に呼ばれても、親も「お金を払えばいいんでしょ。」と言うとか。また、「どうして万引きしたの。」と聞くと、「何軒見つからずに万引きできるか、みんなでコンテストをやっているんだ。」と、全く罪の意識がない答えが返ってくるとか。まさに人間の恐ろしい姿ではありませんか。(続く)

◎ 暗誦聖句 Ⅱコリント一・九 後半(表題下の聖句)

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ローマ人への手紙(八〇)

 第二に、「神(かみ)の像(かたち)にあわせて」とは、精神的な類似性であったということです。神は霊(れい)であり、人間の魂(たましい)も霊です。霊の本質的な属性(ぞくせい)は、理性と良心、そして意志であるといわれます。
 理性とは「理性的な考え方」とか「理性的な人」とか言うあの理性です。


 良心、それは「悪いことをすれば良心に痛みを感じる」という具合に人間の道徳性をあらわし、さらに人間の意志は、自由な行為者であり、自由な意志を持って何かを行動するということです。
 この理性、良心、意志、こういうことが、神のかたちに似せて造られた人間の姿であると言います。


 使徒パウロは「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた」(=真理(まこと)に基(もと)づく義(ぎ)と聖(きよさ)とをそなえた神に象(かたど)って造られた)と、人間の新しく生まれた姿を表現しています(エペソ四・二四)。
 「新しい人を着(き)る」という表現で、真理の義と聖とをそなえた神に象って作られた、神様を信じる者たちの姿です。


 第三に、神様のお姿に似せて造られた人間は、社会的な類似性を持ちます。その類似性とは、愛するという感情です。人間は常に交わりを求めます。以前、直木賞を受賞した女流作家の小池まり子氏が朝日新聞のコラムにこう書いていました。『人間はみんな孤独である。そして寂しがり屋であるから、孤独な中にあって交わりを求める。』と。


 確かに、私たちは自分一人で仕事をします。Eメールを送る場合、パソコンに向かってひたすら文字を入力していけば、それでいいかも知れません。しかし、パソコンの向こうにいるのは、やはり人間です。近年、Eメールを使った犯罪が沢山(たくさん)起こっています。
 多くの人がEメールに頼って「出会い」を求めています。Eメールは良い面よりも犯罪に使われる方が多いかもしれません。皆さんはどうでしょうか。家に帰ると、「ああ疲れた」と、すぐにパソコンに電源を入れて「何かメールが入ってないかなあ」と見て、ほっとするでしょうか。
 パソコンが話し相手ではお気の毒だと思います。神様が下さった人間同士の語り合いは心が触れ合います。多くの人たちがEメールやインターネット、あるいは携帯電話で悪い方(ほう)に誘われてしまうのは何故でしょうか。Eメールは相手の顔が見えません。
 日本では、人間は目を見ればその人が真面目(まじめ)か、本気かどうかがわかる、と言われています。ところが、パソコンでは全然相手がわかりません。心をくすぐるような甘い言葉で誘い、特に悪いことをする人たちはそうしたことにたけて(・・・)いるから、メール類は十分に気をつけなければいけません。
 牧師はパソコンの悪口を言っていると思わないで下さい。これは警告です。(続く)

◎ 暗誦聖句 ルカ 七章一三節(表題下の聖句)

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ローマ人への手紙(七九)

 罪は、モーセを通して神様が律法をお与えになった後から存在したわけではないのです。それ以前に、すでに人類の始まりから罪は存在しました。しかし、罪は法律ができてから、それによって裁(さば)かれます。
 人間の罪はそうした法的な罪だけでなく、心の内側にある神様に対する不従順、不信仰のそれをも指すのです。英語では、神様に対する罪を「sin(スィン)」と言い、法律上の犯罪の場合は「crime(クライム)」と言います。


 神学校では、組織(そしき)神学(しんがく)を勉強します。組織神学はクリスチャンの信仰の土台(どだい)骨(ぼね)、また、日常生活の様々な疑問に対して聖書はどう教えているかということを学ぶ学問です。
 『組織神学』という本を書いたヘンリー・シーセンという学者は、創世記一章二六節、二七節の「神の像(かたち)に、神に象(かたど)って人間が造(つく)られた」という箇所を「①それは肉体的類似(るいじ)ではなく、②精神的な類似、③道徳的な類似、④社会的な類似である。」(三六〇頁以降)と説明しています。

 第一に、神様は人間の肉体との類似性をお持ちになりません。


 東京駅に行くことがあれば、総武線快速乗り口の地下に降りる入口の少し上をご覧頂きたいです。そこには『天地創造』と題された立派なステンド・グラスがはめ込まれています。
 これは地下工事完成時に、国鉄(こくてつ)総裁(そうさい)だった十合(そごう)というクリスチャンが描かせたと言われています。日本の表玄関といわれる東京駅構内に『天地創造』の神様の御業(みわざ)を示すということは、相当な勇気が要(い)ったことだと思いますが、時(とき)の国鉄総裁は大胆に自分の思いを込めたようです。

 そして、東京駅の皇居側(こうきょがわ)、中央口を出た所には一つの銅像があります。それには『アガペー』と書いてあります。アガペーとは、絶対的な神様の愛を意味します。
 愛には三種類あると言われています。「アガペー」という神様だけがお用いになる絶対的な愛、もう一つは「フィレオ」という兄弟愛、もう一つは「エロス」という人間の男女の愛です。その『アガペー』と題する銅像が、東京駅中央出口に立っているのです。


 過去の画家が様々に描いた神様の図を、皆さんもご覧になったことがあるでしょう。神様の指と人間の指を合わせるように手を差し伸べている姿、白髪の老人が、頭を差し出している人間に手を差し伸べて、あたかも命を与えているように描かれた絵です。
 そのイメージで、「神様とは、白髪の老人だ」と思ってしまいますが、違います。人間は神様の像(かたち)に造られたというから神様も同じようなかたちと受け取りやすいですが、それは大きな間違いです。神様の像に造られたということは、肉体、体の類似ではありません。(続)

◎ 暗誦聖句 マルコ一〇章四八節(表題下の聖句)

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ローマ人への手紙(七八)

 「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。」ローマ書五章一八節

 ギネスブックによると一字一句手書きで「I(アイ) love(ラブ) you(ユー).」を十万回以上書いた男性がいるそうです。人間が「神様を愛します。賛美します。」と録音したものを聞くことを、神様は望んではおられません。

 やはり、その人が心から意志を持って神様を賛美し、礼拝することを望んでおられるのです。そこに「人間の自由意志」が問題になるのです。アダムは神様に与えられた自由意志を使って、「やってはいけない」と言われていた事をやってしまい、神様に対する不従順、不信仰の罪を犯してしまいました。


 罪には、まず「的(まと)をはずす」という定義があります。弓矢(ゆみや)なり、鉄砲(てっぽう)で向こうにある的(まと)の中央に矢を放つとしましょう。罪の最初の定義は〝的をはずす〟ということです。神様が「人間はこのようにあるべきだ。」ということに対して、私たち人間は毎日の生活の中でその的をはずしてしまいます。大雑把(おおざっぱ)に分けますと、やってはいけないことをやってしまい、やるべきことをやらない、という二つの領域における罪であり、「神様への不従順」という罪です。そして、もう一つは〝神様に対する不信仰〟が罪と言えます。


 若い人たちは、個人伝道を受けると「神様がはじめの人アダムとエバをお造りになったことはわかりました。そして、アダムが罪を犯したこともわかりました。でも、アダムと私とは関係ないじゃありませんか。私にはアダムが犯した罪の責任はありません。」と言います。


 さて、ここからが実は長い神学論争の始まりとなるのです。なぜ人間はアダムが犯した間違い、罪の結果として、自分たちが「罪人」と呼ばれなければならないのでしょうか。

 使徒パウロは、このローマ書五章においてそれに対して説明を加えていると考えて頂きたいのです。一人の罪が多くの人に死をもたらしたが、神様がお遣(つか)わし下さった一人の正しい人、イエス・キリストの犠牲(ぎせい)が多くの人に生命(いのち)をもたらす、ということです。一人の罪は神様から有罪の宣告を受けましたが、一つのいけにえがその罪の宣告を除きました。一つの罪が全世界を支配する力を持ちましたが、一つのいけにえが生命をもたらすのです。一人の罪によってすべての人に有罪宣告がされました(一八節)が、一人の犠牲によりすべての人を義と認めるという神様からの救いの方法が示されたのです。(続く)

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