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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(八六)

 どんなに罪深い人であっても、仮に誰かを傷つけたり殺害した人間であっても、このローマ五章二〇節を見ると「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。

 罪が深ければ深いほど、大きければ大きいほど、イエス様の愛は私達をすっぽりとかくまって下さり、愛のうちに育(はぐく)んで下さるのです。言いかえるなら、「私はそんな大きな罪を犯していません。」という人はまだまだ自分自身に頼っているのです。


 パウロほど学問を追求した人は当時いなかったでしょう。パウロのように献身的に神様を愛した人はいませんでした。

 パウロのように世界中の人に対する愛を持った人は皆無(かいむ)でした。にも関わらず、彼は「私は罪人(つみびと)のかしらです。」と言ったのです。

 神様に近づけば近づくほど、私たちは自分の罪深さを知るのです。そして、〝神様の愛は、罪の増すところに恩恵(めぐみ)もいや増(ま)す。〟ということを学ぶことができるのです。ぜひ、ローマ人への手紙五章八~二一節を読み、その意味を考えてください。


 ローマ書の五章と六章は大変関連が深く、五章の後半から六章の前半へと文がつながってゆきます。前にもふれましたが、聖書の中で最も難しい場所がこのローマ書だと言われています。

 しかしローマ書は、指輪に例(たと)えるなら中央にある宝石と同じように、大変価値あるものと考えられています。短いローマ書の中に、聖書全体を貫(つらぬ)く神様のご計画がどのようなものか、また人類の救いについて聖書が教え示している基本的な骨組みを、しっかり学ぶことができます。


 聖書の中心テーマは人間ではありません。パウロはローマ書の中でそのことをはっきり教えています。聖書は人間の救いや幸福のために書かれたと思われがちですが、ローマ書を読めば、聖書の中心は主イエス・キリストであることがわかります。

 イエス様こそ聖書全体を貫く中心であり、同時に人間の救いもまたイエス様を中心として考えなければなりません。世の中は人間が主体となって動いています。けれども聖書は明らかに、神様が人間をお造りになったこと、また、人間をなぜお救いになるのかを教えています。


 クリスチャンになるという時に、自分の人生をやり直すとか、罪をもうこれ以上重ねたくないという責め苦(せ く)、苦しみからの解放を願って救いを求めると思います。しかし、ローマ書を読んでいくと必ずしも、それが私たちの信仰の中心ではないことがわかってきます。

 神様はイエス・キリストこそ聖書の中心であり、イエス様を中心として私達は聖書を読んでいかなければならない、と強調しておられます。(続く)

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ローマ人への手紙(八五)

 最近、親が子供を殺すという嫌(いや)な事件が頻繁(ひんぱん)に起こっています。しかし、私たちはこの人たちを非難(ひなん)することができるでしょうか。

 私自身が、イエス様の基準に照(て)らすならば、実は毎日、悪い人間と同じような罪を犯しているのではないでしょうか。しかし、イエス様は、私のそうした醜(みにく)く、罪深い心をご存知で、奈落(ならく)の底(そこ)から引き上げてくださったのです。

 私たちは本当に不完全な者です。イエス様を信じた結果として、神様を喜ぶことができるようになるのです。


 どなたでも、大好きな先生やお友達を持っておられるでしょう。その人といると、何も言わなくても心安(やす)らぎ、穏(おだ)やかな気持ちになるという方が何人かいらっしゃるでしょう。

 「いや、私にはそういう人はいません。私にとって一番大事なのは家の犬です。」とかいう方がいるかもしれませんが。


 最近では、老人ホームなどで犬や猫が「癒(いや)す」という目的で飼われているようです。老人達は「愛する相手がいない。」という人が多いとか。

 ところが、犬や猫を連れて行くと、とても和(なご)むそうです。そのことは、人間がどんなに愛する(・・・)という対象(たいしょう)、「愛される」のではなく「自分が愛する」という行為、働きかけをする相手が必要か、ということではないでしょうか。


 私達はイエス様によって救われ、そして喜ぶことができます。心から積極的に神様を愛するということは、神様の御言葉を学び、御心(みこころ)を知り、御心に従っていく行為(こうい)において、神様を愛していることが証(あかし)されます。


 私たちは罪がもたらす様々な結果をよく知っています。たとえば、おなかをすかせたドロボウが肉屋に入りました。

 手っ取り早く食べられるのはソーセージです。肉屋の倉庫にはソーセージがぶら下がっていたので、彼はしめしめ(・・・・)と、ソーセージを引っ張って逃げようとしました。

 しかし、ソーセージは引っぱれども引っぱれども一五メートルもつながっていたのです。逃げようとすると躓(つまづ)いて、もがけばもがくほど体中ソーセージのひもで結(ゆ)わかれてしまいました。


 こっけいなドロボウではないですが、私達は、もがけばもがくほど自分の力では罪のワナから逃げることはできないのです。東京の中心をぐるぐる回っているJR山手(やまのて)線(せん)からまっすぐな線に乗り換えることができるように、私たちの意志を使って「イエス様、私を救って下さい。」と、求める時にイエス・キリストは天国に直結する線に乗せて下さいます。

 ですから私たちは自分の歩いて来た道、人間の歩いて来た道を進むのではなく、皆さんがこれから目当てとするところは、イエス様が敷(し)いてくださったレールの上を走っていくのです。(続く)

◎ 暗誦聖句 ローマ五・一後半(表題下の聖句)

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ローマ人への手紙(八四)

 皆さんには、今、直面している大きな問題があるかもしれません。経済的な問題、人生の、あるいは家庭の問題、結婚の問題、様々なことがあるでしょう。しかし、不可能と思えるときに「神様!」と、神様の御声(みこえ)を待つ時に、神様はあなたの必要としている力をお与えくださいます。


 アウグスティヌスという有名な神学者は、若い頃、大変誘惑に負けやすい生活をしていた、とのことです。彼は神様にこう祈ったと記録されています。「主よ、どうぞ私を罪から救ってください。でも、全部じゃないです。」皆さんの中にも、こんな人はいるのではないでしょうか。

 「神様、私を救ってください。でも、今、私が楽しんでいる、これだけはやめられませんから。」そういうのはないでしょうか。

 「私を救ってください。でも、私が何より好きな酒はやめさせないで下さい。私が大好きなタバコも、やめさせないで!」何か自分でとどめておきたい、残しておきたいものがあるのではないでしょうか。

 アウグスティヌスはやがて、その祈りが不従順だということに気がつきました。そして最後には、「主よ、私のすべての罪、けがれから私を清めてください。そして今、たった今、私を救ってください。」と祈ったそうです。


 私は皆さんに「あなたは今、こういう罪を犯しているでしょう。」と、いちいちあげる必要はありません。皆さんの中で「私は何の罪も犯していない。」と言う人がいらっしゃるでしょうか。誰もいないはずですね。私たちは心の中にみんなアダムから受け継いだ罪の性質を持っています。

 以前、カルヴィン主義とアルメニアン神学の神学論争について言及(げんきゅう)しましたが、ここにその結果が出てきました。


 私たちは神学論争を知らなくても、誰から教(おそ)わらなくても、自分の心の中に罪があることを知っています。自分の名前すら書くことのできないタイの仏教徒の人たちであっても、無学の人であっても、自分は罪人であることがよくわかると言います。


 お父さん、お母さん達は、よく子供を捕(つか)まえて「あんたみたいな悪い子は見たことがない。」などと言いますが、実際には自分達がそうだったのです。

 思春期や青年期の心理学を学ぶと「私の子供の頃にはそういうことはしなかった。私の子供の頃はこういう風にやった。」と言うそうですが、同じことを五〇年前の親も言い、一〇〇年前の親も言った、と書いてあります。


 結局、私たちは自分達が悪いことをした、という経験を持っています。そしてまた、それがどういう痛みを伴うかを知っているのです。(続く)

◎ 暗誦聖句 ヨハネ一三章一四節(表題下の聖句)

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ローマ人への手紙(八三)

 「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」     ヘブル書四章七節

 私たち人間は、イエス様を信じて神様の恵みを頂くことができます。創造主、神様の子となる力を与えられるのです。

 東京の真ん中をぐるりと走っているJR山手(やまのて)線に乗っていると、居眠(いねむ)りをしていても同じ所に戻ってきます。皆さんがアダムの系図という罪の中にいるならば、いつまでたってもぐるぐる回る山手線に乗っているのと同じです。高尾山(たかおさん)に行きたいと思うなら、山手線を降(お)りなければならないのです。


 アダムの罪の系図から降りて、イエス・キリストの永遠の生命の線に入らなければなりません。
 そうするためには、「あっ、秋葉原だ。降(お)りようか、どうしようか。降りよう。」と、決断を下さなければならないのです。その決断を下すのはあなたの意志です。

 神様を選ぶかどうかを決める時には意志が働きます。最終的に「降りよう。」と決めるのが、聖霊の働きによるところの意志の決定です。山手線にはずっと乗っていることができます。「みんなが乗っているからいいじゃないか。どうせ滅びるなら、みんな滅(ほろ)びるんだから。」と考えていて山手線に乗っていれば、一生乗り続けることができます。

 しかし、自分の意思で、「いや、私は中央線に乗り換えて別の道へ行こう。」と思うのであれば、そこで電車を降りなければいけません。山手線は、あなたが降りるのを一時間も二時間も待っていてくれないのです。


 神様は、私たちの心に強く働きかけて下さって「今日、神様の御声(みこえ)を聞いたならば、心をかたく(・・・)な(・)にしてはいけません。」とおっしゃいます。

 「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント六・二)という御招(おまね)きの時に、「はい。」と立ち上がって電車を乗り換えなければならないのです。人間が神様に従うという最小限の意志を示す時に、神様はこの人に「悔(く)い改(あらた)める」ということと「イエス様を信じる」という信仰をお与えになります。


 イエス様は弟子達を連(つ)れて道を歩いておられる時に、足の不自由な人や手の動かない人をご覧になりました。「イエス様。」という声を聞かれると「あなたは何をして欲(ほ)しいのか。」とお聞きになり「あなたは手を伸ばしなさい。」とおっしゃいました。

 手の不自由な人、手のなえた(・・・)人に「手を伸ばしなさい。」というイエス様の呼びかけは、自分の意志を持ってイエス様を求めることの大切さを示しています。「いや、ダメだ。やってもダメだ。」と思っていれば動きません。「イエス様がおっしゃることだからやってみよう。」と思ってやると、自然に手が動いてきます。信仰のあらわれで神様の御業があらわされるのです。(続く)

◎ 暗誦聖句 ローマ一〇章一一節(表題下の聖句)

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ローマ人への手紙(八二)

 現在のいろいろなコンピューターのように、人間の頭の中にちゃんとプログラムを入れてしまえば悪質な犯罪は起こらないでしょう。でも、それはどんな優秀なロボットでも愛情の対象とはならないのと同じです。神様は人間の自由な意志、「やろうかな、どうしようかな。」と迷い、迷って負けてしまったなら「神様、ごめんなさい。」と謝(あやま)ることの方(ほう)を喜ばれます。


 迷ったあげく、「やっぱり神様に従っていこう。」というのであれば、そこにあなたの信仰の勝利があり、その勝利の積(つ)み重ねと、「ああ、神様感謝します。」という積み重(かさ)ねが、だんだん皆さんの信仰を強めていくのです。そして、神様に心から、より頼むことができるようになるのです。


 「それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。」 ローマ書五章一一節


 私は宗教熱心な家庭に育ちました。物心ついた頃から、私が朝起きると父親が庭に出て庭の小さなほこらに向かって一生懸命拝(おが)んでいるのを見てきました。題目(だいもく)を唱(とな)えながら数珠(じゅず)を動かし、太陽を拝み、家に入ると神棚(かみだな)に手を合わせ、そして仏壇に手を合わせていました。


 そういう生活を毎日見ていましたが、そうした姿の中には人間の魂の安らぎを見ませんでした。病気の時、経済的な苦しみの時、戦争の恐怖の時などに、救いが全くなかったのを見出しました。そして私は、親の信仰、親の宗教に頼らないようにしようと思ったのです。

 あんなに一生懸命やっていても救いがなければ、その宗教に自分は身を投じることはできない、と思ったからです。親の反対があっても、私は自分の意志で真理を求めようと考えました。

 私がそういう信仰の求めをしたために、父親や、母親が亡くなった時に手を合わせなかったのです。母の葬儀の時、私の世話をしてくれていた一番上の兄に「兄弟の縁を切る。」と言われました。

 それから二〇年以上がたった時、私に絶縁状を突きつけた兄が、「私は、あんたが信じている神様に救われたい。」と言ってきたのでした。

 仮に、イエス様を信じるという信仰のゆえに、家族から絶縁状を突きつけられても絶望しないでください。私たちは祈ってすぐ結果が与えられるとか、祈ったものが短い期間で結果となって現れると思いやすいですが、祈り、あるいはクリスチャンの勝利というものはずっと長い期間に思えても、神様がご覧になればほんの一瞬に過ぎないのです。
 神様のお約束に従っていく時、必ず勝利があるということを信じましょう。「主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。」とは、何と素晴らしい御言葉(みことば)でしょうか。(続く)

◎ 暗誦聖句 ローマ一〇章一一節(表題下の聖句)

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