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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(九〇)

 ローマ書六章において、使徒パウロはイエス様を信じるものは義と認められた後に聖(きよ)くされていくという過程を述べています。義認(ぎにん)の次が聖化(せいか)ということです。イエス様を信じる者は罪の力から自由にされるということです。

 この六章で難しいテーマの一つは、イエス様を信じたら私たちは絶対に罪を犯したり、間違いを犯すことがないか、ということです。


 「クリスチャンでも罪を犯す」と思う方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。感謝なことに、イエス様を信じて罪を犯した時に、そこには赦しがあります。イエス様が弟子たちに御教えになったことを思い起こしていただきたいのです。

 「兄弟があなたに罪を犯したならば、何回罪を赦しますか?」と質問した弟子に、イエス様は「七度を七〇倍するまで、その兄弟を赦しなさい。」と仰(おお)せになりました(マタイ一八章二一、二二節)。イエス様ご自身がそうおっしゃったのだから七の七〇倍は四九〇回といちいち数えるのではなく、これは無限にと思っていただければ良いでしょう。

 7は聖書の中では「完全数」と言われていますから、無限に限りなく、と思えば良いでしょう。


 ところが、お母さんはそうはいかないようですね。「あなたはこの前もやったでしょ。何回やったら気がすむの!」子供に対しては数をあげて「先週やったでしょ、先月やったでしょ、去年もやったでしょ」。数えると、きりがないですが、神様はそれ以上に私たちを愛して下さり赦して下さいます。そして、その傷を癒(いや)してくださるのです。

 もし、神様の憐み、神様の恵みや、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」という御言葉がないなら、私たちは絶望の淵に立たされているのではありませんか。


 皆さんはお客様用のティーセットや、カレーセットをお持ちでしょう。奥さんたちは、セット物の中のおそろいの皿やカップを割ってしまった経験がありませんか。

 不思議なことに、日本の食器類は普通五個組になっていますね。西洋の食器はたいてい六個セットです。仮にそのセットのものを一つ、あるいは一枚割ってしまうと「もうこれはお客様用としては使えない。普段用として家で使いましょう」ということになります。

 いったん傷がついたらダメと考えてしまいますが、神様は全く傷がなかったと同じように私たちを変えてくださるのです。神様の救いがどんなに万全であり、すばらしいものであるかがわかってきます。すると、罪の性質がある人間は愚かにもこう考えます。「神様が赦してくださって、また新しくなるなら、何回やってもいいではないか。思う存分、遊びほうけてやろう。何をやっても神様はゆるしてくださるんだから。」と。 (続く)

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ローマ人への手紙(八九)

 今、海で溺れかかっている人がいるとします。アップアップやって一息、頭を出しては、またブクブクと沈んでいきます。そこへあなたが船に乗って、浮き輪をつけ、いざという時には自分も飛び込んで助けようとそばに行きます。

 すると、溺れている人が「もう少し髪をちゃんとしてから来て下さい。」とか、「あなたの水着のデザインはあまり気にいりません。私はもっときれいなデザインの水着の人に救われたい。」と言って、「助け舟」が来たのに、この人を拒んだとしたら誰の責任でしょうか。助ける人の責任でしょうか。いいえ。明らかに、これは拒んだ人の責任です。

 溺れつつある人が、もう少し服装のきちんとした人がいいとか、お巡(まわ)りさんに救われたいとか、別の人に救われたいと思って拒んでいれば、それはその人自身の責任になるでしょう。


 私たちは本当に救われたいと思う時には、ただひたすら「神様、私を救ってください。」と、願いますね。それを、「心が砕かれた状態」と聖書は表現します。

 自分の好みとか好き嫌いで、ああでもないこうでもないと言って議論をしたり選ぶのではなく、神様が下さった贈り物であるイエス様を素直に受け入れる、ということです。自分の力に頼ってはいけません。


 さらに、私たちはイエス様を信じる時に、この地上における日々の生活の中で仮に誘惑に負けても、それで罪の奴隷になることはないでしょう。

 イエス様を信じる前、私たちは罪の責め苦にさいなまれ「また失敗してしまった。また悪いことをやってしまった。」と、いつも悔いが残る惨めな人生を歩んでいました。


 しかし、今、ローマ書五章二〇節を見ると「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」とあります。そこで考えることは、「私は正しい人間であるからとか、立派な家系に生まれたから神様に救われる。」というのではなく、「私の心には醜い罪がいっぱいあって、自分の力ではどうすることもできない。私には、やめようと思ってもやめられない悪い癖、悪い性質がある。自覚すれば自覚するほど、私は他の人よりもはるかに悪い人間だ。」ということがわかってくるでしょう。


 そして、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」ということが少しずつわかってきます。イエス様は『多く罪赦されたものは、多く愛する』(ルカ七・四七)とおっしゃいました。私たちが罪そのものの力に負けて、神様の御前にあって自己主張する時に、まだまだ自分が砕かれていないことがわかってくるのです。ローマ書六章一~八節を、意味を味わいながらお読みください。(続く)

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ローマ人への手紙(八八)

 若い人は、「私は何も悪いことをしていない。それなのに神様は私たちを裁くのか。」と、突っかかってきます。

 それに対してハッジ博士は、「あなたが裁かれるのはアダムが犯した罪のためではない。アダムが神様に逆らい、罪を犯したその罪の性質を遺伝的にあなたは持っている。神様はその罪から救い出そうとして、イエス様をお遣(つか)わしになったにも関(かか)わらず、あなたはそれを拒み続けるところに罪がある。」と言うのです。ですから私たちは今日、アダムが犯した原罪(げんざい)、アダムが犯した罪のために裁かれるのではないのです。


 私たちは、アダムの犯した罪の結果、罪の性質を遺伝的に持って生まれ、その流れで進めば、必ず「滅び」に落ち込みます。神様は限りない愛をもって、私たちをその罪の束縛(そくばく)から解放しようとイエス・キリストをこの世にお遣(つか)わしになりました。


 それなのに、人間は、「神様は目で見えない。だから、神様を信じない。」と言います。これこそ人間の大きな罪なのです。


 主イエス・キリストは肉の体、人の形(かたち)をおとりになって(ヨハネ一章)この地上に生活なさり、そして人間と同じ食べ物を食べ、寝起きし、弟子たちを訓練なさいました。罪(つみ)汚(けが)れのないイエス・キリストが私たちの身代(みが)わりとなってくださるということによって、神様の裁(さば)きから逃(のが)れる道が開かれたのです。

 神様がくださった贈り物、イエス・キリストの憐みを拒み続けるところに、現在の私たちの罪があるのです。誰でもイエス・キリストを見上げて「私を救ってください。」と、お願いするならば、どんな恐ろしい殺人を犯した人であっても救われることができます。そのことはすでに旧約聖書のイザヤ書の中で預言されています。


「さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」イザヤ書一章一八節


 私たちの罪汚れが、たとえ緋のように赤くても、雪のように白くしてくださる、という大変大きな神様の憐れみが記されています。また、イザヤという名前(「エホバは救い主」の意)が象徴するように、聖書全体を貫く教えは、神様は罪深い私たち、神様の贈り物を拒み続ける私たちを哀れんで救おうと、その機会を待って救ってくださる、ということです。


 交通事故に遭った時、病気で臥せった時、家族のいざこざでどうしようもなくなった時、人間関係がにっちもさっちもいかなくなった時、閉じ込められた状態の時、その時に私たちは自分の力でも功績でもなく、神様から頂く憐みによって救われようという心砕かれた状態、へりくだった状態になって神様を呼び求めるようになるのではないでしょうか。(続く)

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ローマ人への手紙(八七)

 多くの人たちは聖書を読むたび、「どうして聖書はこれほど鋭(するど)く私の心をえぐり出し、これでもかこれでもかという具合に執拗(しつよう)に私の罪(つみ)を攻(せ)めるのか。だから聖書は読みたくない。」と言います。

 しかし、私達はこうした人間の苦しみ、生きる目的というものをこのローマ書の中から探ることができるのです。


 私は、このローマ書の内容がいくらかわかってきたかなといえるまでに五〇年かかりました。信仰生活の全ての年月、ローマ書を勉強して、なお、わからないところがあるわけですから、学べば学ぶほど奥行きが深いということを覚えて頂きたいのです。


 では、ローマ書は全然わからないかというと、そんなことはありません。ローマ書の中心的なテーマは「罪」、そして、中心人物は「イエス様」です。

 その中のテーマとしては人間の「罪」と神様による「救い」、そこに示された神様の大きな「恵み」ということです。さらに神様は、罪の世界から私たちを救い出し、日々守ってくださり、限りない愛を注いでくださることの強調があり、私たちはこの地上の生活を終えてから栄光の姿に変えられる、という大きな希望を、このローマ書を通して学ぶことができるのです。


 「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物(たまもの)をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」ローマ五章一七節


 ローマ書を解説した聖書学者は多くいますが、最もよく知られているのが長老派系統の学者、チャールズ・ハッジ博士でしょう。ハッジ博士は懇切(こんせつ)丁寧(ていねい)に理論を進めます。これは神学校三年間で学ぶレベルではなく、その上の神(セミ)学校(ナリー)や大学院で学ぶ教科書になるでしょう。

 残念なことに、ハッジ博士はバプテストの立場ではなかったので、バプテスマという点においては私たちと明確に立場を異(こと)にします。けれども全般的にハッジ博士が書いたローマ書の注解書は、最高の部類に属すると教わってきました。


 ハッジ博士はローマ書五章一七節の説明で「神様がくださる義(ぎ)という贈(おく)り物(もの)、そして、そこにあらわされる測ることが出来ない大きな恵み、そのことをよく味わい、日々それを感謝しなければならない」と記しています。またハッジ博士は「人間はなぜ神様から裁(さば)きを受けなければいけないのか」ということをとりあげています。

 「アダムが犯した罪であり、問題であるならば、アダムだけがその罰を受ければいいのではないか」と考えてしまいやすいからです。(続く)

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