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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(九五)

 もし皆さんが、生まれた時から受け継いでいる性質、古いままの性質を持ったままで、自分の修行のため、勉強のためとか仕事や商売の利益のためにと信仰生活を送っているならば、必ず行きづまります。まず、あなたは死ななければならないのです。


 今、生化学の進歩は目ざましく、バイオ・テクノロジーもすばらしく進歩しています。脳梗塞であるとか、アルツハイマーであるとか、様々な病気が遺伝子を入れ換えたり操作すればそういう病気はなくなるという時代になってきたようです。


 ところが、人間にできないのは、アダムから受け継いだ罪の性質を殺すことです。どんな立派な科学者や医者であっても、アダムから受け継いだ遺伝子、罪の性質は拭い去ることはできません。

 しかし、「私たちがイエス様を信じるという瞬間、神様の側から働いて下さって私たちの古い性質は十字架につけられて死ぬ。」と考えて下さい。


 神様は「あなたは、もうアダムの性質の言うままに生きる必要はない。これから私の与える聖書の言葉を通して、霊のまことの乳である御言葉(みことば)を通して育っていきなさい。」と、語りかけて下さいます。

 「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます」(詩篇一一九篇一三〇節)。私たちの内側を照らしてくださる光である御言葉は、満ち足りた栄養たっぷりな霊のまことの乳です。


 今からは、私たちは「もう私は死んだのだ。」と考えていただきたいのです。誘惑が来た時に、「古い性質は死んだのだからそれはもう要(い)らない。」と。


 それでも負けることがあります。そこでパウロは、人類永遠のテーマをここで書いています。「すべてイエス様を信じる者は罪に対して死んだ。」と。ところが、クリスチャンは、すべて今なお罪の中に生きている、という矛盾があるのです。

 聖書は明らかに「あなたの罪の性質はもう死にましたよ。」と言っています。ところが、実際の日々の生活の中で私たちは悪いことをしてしまう、間違いを犯して誘惑に負けてしまう、ということがあります。この二つをどう結合することができるのでしょうか。


 「クリスチャンは一度、罪に対して死んだ。絶対に罪の力によって征服をされることはない」。ここが鍵です。罪の力によってコントロールされなくなるのです。なぜなら私たちの古い性質は死んだからです。

 ここで問題なのは「罪の力」です。皆さんは多分、誘惑は自分の内側から出てくると思っていることでしょう。自分の願いが誘惑を引き寄せていると。誘惑は、明らかに悪魔の側(がわ)から注がれています。悪魔は信仰のない私たちを自由自在に操っているのです。(続く)

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ローマ人への手紙(九四)

 フィリピンでは、少し前までアメリカの大きな車がたくさん走っていました。良い車に見えても中身はオンボロでした。フィリピンの人たちは自分たちで修理をしながら車を使っているわけですが、エンジンは日本のトヨタ製の物を使っていました。

 彼らは車のボディはアメリカの頑丈なのを使い、エンジンは日本のトヨタや日産を入れました。後に力車をつけたヤマハのバイクは、二〇年ぐらい使われています。


 私たちはアダムからもらった古い体を持っていますが、アダムの性質によって生きているのではありません。イエス様を信じ、イエス様の御力(みちから)によって罪に打ち勝ち、神様に従っていこうと日々祈っています。

 皆さんがご覧になれば「牧師だって、偉そうなことを言ってもあんなに罪を犯しているではないか。間違ったことを沢山やっているではないか。」ということがあるかもしれません。しかし、私はその度にビクビクする必要はないのです。神様によって私は赦されているからです。


 では、赦されたからといって何をやってもいいかというと、そうではありません。

 「赦された。もうやめよう。」と、決意を新たにし、次の時にはその誘惑に打ち勝っていくのです。一度誘惑に打ち勝つ経験をすると、その誘惑に負けないようになってきます。

 しかし、私たちは自分を「抜(ぬ)け殻(がら)」とは言いません。私は「新しい人間になった」と言うのです。


 ここが問題です。私たちはイエス様と共に十字架について死ななければ、神様は私たちのうちに新しい生命を与えて下さいません。多くの人たちは古いボディを持っていて、古いエンジンで動こうとするから止まってしまうのです。

 私たちは神様から新しいエンジン、すなわち聖霊(せいれい)の内住(ないじゅう)をいただかなければクリスチャン生活を営めないのです。だからパウロは「あなたのアダムから受け継いだ古い性質は、十字架につけられて死んだと認めなさい。そして今あなたは、イエス・キリストの復活の生命によって生かされているのですよ。」と、教えています。


 「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。」      ローマ書六章五~七節


 「私たちの古い人」とは、アダムから受け継いだ古い性質、生まれつきの性質のことです。「死んだ者は、罪から解放されている」とは、死んだ人間は罪の力から解放されている、ということです。(続く)

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ローマ人への手紙(九三)

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」ローマ書六章四節


 イエス様が十字架におつきになって私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった時に、私たちも、汚れに満ちた自分の肉の体をイエス様の十字架に合わせたのです。

 現実には、私たちはこの地上にあって生きていますが、信仰によって、イエス様が十字架におつきになった時に、アダムから受け継いだ私たちの古い性質も一緒に十字架につけられて、古い性質は死んだのだ、と思いましょう。

 イエス様が死んで葬(ほうむ)られ墓に入れられた、その「死」に私たちは合わせられます。さらにイエス様が、三日後に復活なさったように、私たちもイエス様の復活に合わせられていくのです。


 いうならば、私たちはお父さんお母さんから受け継継いだこの古い性質、自分という人間を脱却します。

 「透明人間」という映画が私の子供の頃にも流行りました。気に入らない友達をポカンと殴っても、相手は誰なのか見えないのでわかりません。私たちはそういう透明人間ではありません。


 イエス様が十字架につけられた時に、私の古い性質は十字架につけられて死んだ、と思うことです。皆さんは、生きる時に目的なしに生きることはないでしょう。一見、何の目的もないように生きていますが、実は神様にあって新しい生きる目当てを与えられているのです。その目当ては、イエス・キリストのお姿に似るようになるということです。


 結婚している婦人の場合、大それた計画はなくても家庭にあってはその子供を育て養い、料理を作り、洗濯をし、片付けをし、御主人を助けることがあなたにとっては最高に幸せなことであり、日々の務めですね。

 学生の皆さんは、自分に与えられた学校において、自分の力の限りその学びをし、遊ぶ時には力一杯遊び、運動する時には思いっきり運動をする。神様が私たちをお造りになったその目的に従って、毎日、最大限にベストを尽くして、その日を過ごすことが大切です。

 今は、はっきりと自分が将来何になるのかわからなくても、神様はやがて一歩一歩道を開いて下さいます。そして自分はどういう働きをすべきかということがわかってくるでしょう。


 私たちが「死ぬ」ということは、信仰の領域で死ぬということです。まず、頭の領域で、理性的に「私のアダムから受け継いだ古い性質は、イエス様が十字架につけられて死なれた時に共に死んだ。

 これからは、アダムの遺伝子が命じるままに生きるのではなく、イエス様の御心(みこころ)に従っていこう。」と、考える。これが原動力を増します。(続く)

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ローマ人への手紙(九二)

 どうしてもやめられない悪い癖、性癖、悪い趣味、食べ物、飲み物があるとするならば「私はイエス様を信じた時に死んだのだ。だからこのアルコール類は私に対して何の力もなくなっている。」そう考えていただきたいのです。


 死んだ人間は「これがないと生きられない。」と言うことはありません。「神様。どうか毎晩アルコールを口にしなければ眠れない、という奴隷のような状態から、私を救い出して下さい。

 アルコールが私を奴隷にすることがなくなるようにしてください。」と、祈ることです。そうすれば、「そうだ、私はもう死んでいるのだから、死んだ人間が、あれが欲しい、これが欲しいということはない。」と、思うはずです。試しにやってご覧になるといいです。


 私たちがこの地で伝道して、最初に救われた人のことです。ある日、一緒に京成大久保駅に向かって帰る時に、「先生、これを受け取ってくれませんか。」と、言ってかなりの額のお金を差し出しました。

 「理由がないのに、お金を受け取ることはできません。」と私が言うと、彼は「私はイエス様を信じた時に、これまでどうしてもやめられなかったタバコをやめようと思って『神様、私はもうタバコをやめたいです。タバコから逃れたいです。』と祈って以来、タバコ代を貯めてきました。

 もう全くタバコが欲しいとは思いません。タバコの力から私は解放されました。」と言いました。後にこの青年は献身し、伝道者となったのです。


 罪の力は、自分がどんなに理性を働かせても、やってはいけないと思っても、体が言うことを聞かず、手が出てしまうということを、私たち自身がよく知っています。

 私たちが考えるよりも、はるかに罪の力は強く、人間は誰も自分で罪の力に勝つことができません。このことをまず覚えなければなりません。「いや、私は信仰の力によって」という方がいらっしゃれば、少し待っていただきたいです。


 では、どうやって信仰生活を送っていけばよいのでしょうか。どうやって私たちは誘惑に勝つことができるのでしょうか。それは、「自分が死ぬこと」にあります。

 死んだ人間は、叩かれても打たれても何をされても痛くないです。ということは、私たちは「生きている」ために罪の誘惑に負けて「あっ、またやってしまった。苦しい。」と繰り返しやっていくのではないでしょうか。


 「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」ローマ六章三節(続く)

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ローマ人への手紙(九一)

 使徒パウロがローマ書を書いたのは紀元五六~五七年頃ですが、その当時も、「もし神様が全部の罪を帳消(ちょうけ)しにして下さるなら、毎日したい放題やればいいではないか。どんな罪を犯しても神様は赦して下さり、自分は安全なのだから。」と言った人たちがいました。

 そういう人たちに対してパウロはローマ書六章二節で「決してそんなことはありません。」と言っています。「罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」と、言っているのです。


 ローマ書のたいへん大事なテーマが出てきました。イエス様を信じるということは「死ぬこと」です。イエス様を信じるということは、あなたが死ぬということです。


 皆さんにわかりやすいように例えでお話ししましょう。立派な棺(ひつぎ)に入った遺体がここに持ってこられました。ふたを開けて、「では皆さん、この亡骸に話しかけて下さい。」覗き込んだ人達は「寝たきりで棺おけに入っていて苦しくない?返事がないから、少し叩いてみようか。」と叩いてみても、返事はありません。なぜでしょうか。この亡骸は死んでいるからです。


 死んだ遺体を石で叩こうが、線香をつけて焼こうが、何の反応もありません。死んだ人間は絶対に痛いとも熱いとも言いません。

 ですから、日本人は火葬場で遺体を焼くのではないでしょうか。こんなわかりやすい道理であるのに、クリスチャンの場合、イエス様を信じるということは「自分が死ぬ」ということだと理解できません。私たちは罪について死んだのです。

 「決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」 ローマ書六章二節


 皆さんの中には、どうしてもやめられない、これだけは絶対手放せない、というものはないでしょうか。奥さんがなんと言おうと、親がなんと言おうと「やめられない。」という趣味、嗜好品、酒、タバコ、あるいはダンス、マージャンとか。もし、何があっても自分はやめられないという時は、あなた自身がその食べ物なり、飲み物なり、趣味なりの「奴隷」となっているということです。


 私がアメリカに留学中のある夏休み、私は大学の友人たちとコロラド州に児童伝道に出かけました。その時、別の学校から来ていた学生が、コーヒーを飲んでいた私たちに「コーヒーは罪だ!」と、批判し、論争が始まりました。はたしてコーヒーは罪なのかどうか?私たちはコーヒーを罪とは思っていませんが、絶対にそれがないと生きられないとか、やめられないというなら、コーヒーは私たちを奴隷にします。 (続く)

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