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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(九九)

 私たちは、聖書に書いていない事柄について「あれは罪だ」「これも罪だ」と言うことは難しいです。なぜならば、この聖書が書かれた二千年前の時代と、今の時代では様子も違うからです。なぜ聖書は、全てのことについてはっきりとこれは罪です、と書いていないのでしょうか。

それは罪というものは、やった行為だけでなく、心の中に出発点があるからです。私たちはバプテスマを受ける時、「あなたはこれをしませんか。あれをしませんか。」といちいち聞きません。そんな必要はないからです。
 もし、イエス様に目を向けて、神様にいつも近づいて過ごすなら、だんだん悪い友達は去っていきます。もうあなたと一緒にいても、話しても、ちっとも面白くないからと、悪い影響を与える友達は去っていきます。


 私たちはイエス様を信じて生かされた時、イエス様と共に十字架につけられてこの古い性質は死に、イエス様が復活なさったのと同じように、私たちもイエス・キリストの復活の生命をいただく者とされたのです。「バプテスマ」は、罪の性質が死んで葬られ、(水中に体全部を沈めることで、死と葬りを象徴する)イエス様が復活されたのと同じように、水からあがった時に、新しく生きる者とされたことを象徴します。


 人はバプテスマによっては救われません。バプテスマは、イエス様を信じた人が、イエス様と共に合わせられて神様の永遠の生命を授かったことを、人々に証をするものです。イエス様を信じて罪を赦された人たちが、「生涯イエス様に従っていきます。」という思いを込めて、バプテスマを受けます。寝たきりの病人もバプテスマを受けなければダメか、というとそうではないのです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ書一〇・一〇)。


 では、「病人がバプテスマを受けないから、私も受けなくてよい。」と言えるでしょうか。否です。通常の健康体ならば、皆、バプテスマを受けて、イエス様に従っていくべきです。イエス様と一緒に死んで葬られ、復活するというその「象徴」を、自分の証として受けることが大事です。


 赤ちゃんが「オギャー」と生まれたら、父親は「何月何日、家の誰それが誕生しました」と市役所に出生届を出します。市役所では受理をして、確かに出生したことが戸籍(こせき)に載(の)ります。バプテスマは、いわば皆さんが救いの戸籍に入るようなものです。「バプテスマ」についてのトラクトをご参照ください。(続く)
◎暗誦聖句 Ⅰテサロニケ五・一七(表題下の聖句)

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ローマ人への手紙(九八)


 人間は、「信仰」によって始めながら、「自分の力」でそれを完成させようとする弱いところがあります。しかし、私たちは聖書を通し、神様の御力によってのみ、義とされ、そして聖くされていくのです。


 カトリックの世界では、聖マザー・テレサというように、いろいろな人たちを「聖○○」と呼んでいます。カトリック寺院に行くと、有名な聖人の記念碑に四六時中、ろうそくが灯され、人々はそこで香をたき、祈る姿が見られます。

しかし、イエス様を信じて、その十字架の血によって洗い聖められた人は、誰でも「聖徒」なのです。そのことは、新約聖書の中にパウロが繰り返し書いています。


 神様によって救われたあなたは聖徒です。ですから、教会はイエス様を信じて救われた人たちの集まりであり、「聖徒の集まり」なのです。聖書の聖、「聖くされた人々の集まり」であることを覚えてほしいです。


 日本の皇太子は、世界のどこへ行っても、自分が皇太子であるという自覚を失いません。そして、誰が見ていようと見ていまいと、天皇家の一員として自覚を持ってきちんとやろうとなさいます。


 イエス様を信じ、救われた私たちは、自分の力でではなく、イエス様の十字架の血によって罪を聖められたのです。神様の前に罪を赦され、神の子どもと認められたことを、絶えず覚(おぼ)えなければなりません。
 「では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。」ローマ書六章一五節


 使徒パウロの時代、ある人々は「私はイエス様を信じたから、もう何をやっても自由だ。裁きは来(こ)ないんだ。」と言って、ぐうたらな生活をしていました。それまでやっていた過去の悪い習慣へと逆戻りをしました。イエス様を信じたのだから、どんなことをしても罰(ばつ)はうけない、と考えたのでした。


 それに対して、使徒パウロは、「イエス様を信じて聖い生活をいただこうとしている一方で、元の世界に戻ってその罪の喜びを楽しむとは、とんでもないことだ。そんなことはあり得ない」と誤(あやま)りを指摘しました。水と油は、どんなによくかき混ぜても分離します。サラダドレッシングを作ると、油は軽いのでしばらくすると、スーッと上に浮いてきます。


 クリスチャン生活も、これと同じです。神様を信じる人達は、この罪の世界にあっては浮き上がってきます。「私は罪の中にいる人たちを救うためにあえて悪いところへ入っていきます。」というのはとんでもないことで、はじき飛ばされるのがおち(・・)です。「罪は罪をもたらす。」ということを覚えましょう。(続く)

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ローマ人への手紙(九七)

 罪の恐ろしさ、罪のもたらす結果は何でしょうか。
 「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 ローマ書六章二三節


 イエス様を信じて救われたからといって、安心していてはいけません。成長しなければなりません。赤ちゃんを育てるためには、お母さんが一回だけお乳を与えればそれでいいわけではありません。赤ちゃんは毎日何回も、栄養分を与えられなければ育ちません。毎日、お母さんの愛情を受けて育つものなのです。


 「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」ヨハネ一二章二四節


 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、多くの実を結ぶことができません。私たちクリスチャンはあちらこちらに飛ばされて、そこで証をし、育って実を結んでいきます。多くの人々が「私はイエス様を一度信じたから、もうそれでいいのだ。」と考え、どんどん堕落していきます。


残念ながら、それは日本だけではなく、世界中どこにいっても同じです。自分中心の考え方で動く人は必ず脱落していきます。せっかく神様に依り頼むと決心しながら、自分の弱さや自分の思いの中にはまって脱落していく時に、その人々は大変大きな罪の代償を払わなければならないのです。


 私たちはイエス様に救われた時に、いかにも自分には何らかの価値があるから神様によって救われた、選ばれたと勘違いをしがちです。自分の努力や自分の能力を誇って、「私が教会に行かなければ牧師は困るだろう。


私が献金しなければ教会が困るだろう。」などと高ぶった思いを持って集まる人たちは、必ず神様から罰を受けます。使徒行伝一三章八節には、エルマという魔術師が登場します。彼は、自分の力で何でもやろうとし、総督を自分の方に引っ張ろうとして、パウロから厳しく叱責を受け、罰を受けました。


コリント教会の信者も同じでした。パウロの厳しい伝道や御言葉の説き明かしについていけないと、「私はアポロに」「私はペテロに」「私はパウロに」つくと言って分裂をおこしました(Ⅰコリント三・四~七)。教会は聖人君子や天使の集まりではなく、社会の縮図です。社会が悪ければ教会にもそのまま悪が入って来ます。


 戦後、アメリカの進駐軍が日本に来た時、不衛生だからという理由で、日本人は皆ボロボロの洋服を着たまま頭からDDTをかけられました。強烈な駆除剤であるDDTをかけると虱が一度に全部死んでしまうからです。DDTは猛毒のため、今では世界中で廃止されているのですが、時には必要悪かもしれません。

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ローマ人への手紙(九六)

 生まれつきの人間は罪の性質のままに生きています。その結果、様々な恐ろしい出来事に出会います。しかしクリスチャンは、もはや罪の力によって支配されません。このことをしっかり心に留めてください。

 時には友だちに誘われて「やってはいけない事をやってしまった。」ということが起きるかもしれません。しかし、その痛みを覚えて、「神様ごめんなさい。」と言う時に、今度は力を与えられます。罪の力は、あなたを思うままにコントロールできなくなるのです。


 その理由は、あなたの古い性質は死んだからです。新しい性質のもとにあって、神様によって生かされるから日々の歩みにおいて間違いを繰り返し繰り返し行うことがなくなるのです。

 「神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません」(Ⅰヨハネ二・四)。この聖書に書かれた原文は、現在形、進行形であり、「今、イエス様を信じつつある人は、決して罪を続けることはない。」という意味になります。


 ガラテヤ書二章二〇節には「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」とあります。そのことを毎日言い聞かせることが大事です。罪に負けた時に「もはや私が生きているのではない。

 アダムの性質が生きるのではなく、イエス・キリストのご性質が私を生かして下さっているのだ。神様、どうか私を強めて下さい。今度は誘惑にきっぱりと立ち向かうことができますように。罪の奴隷となる事がないようにして下さい。」と願うのです。


 これが、Ⅰヨハネ一章九節の「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」というお約束です。罪を赦された者は、ごちゃごちゃと過去のことを考えなくなります。

 遊びに行こうとする子供に、「もうすぐおじさんの所に行くのだから、洋服を汚さないでね。」と言っても、泥んこになって帰ってきます。親は叱って、新しい洋服に着替えさせます。子供は叱られてもケロッとして、親に抱きついてきます。クリスチャンも同じです。

 罰は罰で受けますが、また神様に愛をもって向かっていきます。「罪を赦される」とは、魂の束縛、罪の縄目から解放された者が味わうことのできる最高の喜びです。クリスチャンの信仰の喜び、力の秘訣は、ローマ書六、七、八章にあると思って頂きたいです。


 イエス・キリストのお姿に似るように、天の御(み)国(くに)を目指して日々歩んで行きましょう。失敗してもそこで諦(あきら)めず、神様を見上げて行きましょう。悪魔は私たちを再び奴隷にすることはできません。なぜなら、イエス様が私の味方でいらっしゃるからです。(続く)

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