fc2ブログ

習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(一〇八)

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。」 ローマ書六章一二節


 肉の体はこの世と関わりがあり、環境に左右されます。同じ人間であっても、南方に住む人たちは日本人と同じ体ではありません。まず、暑い時に私たちが汗を出す汗腺の量が、日本人と南方に住む人とは違います。逆に南方の人たちが北海道に行くととても寒いそうです。私たちにとっては快適だと思う時、彼らは寒い寒いと震え上がります。明らかに、その地方地方によって住む状況や、遺伝的な面で人間の体は違います。しかし、どこに住む人間であっても、肉体、精神、霊という三つの構成は変わることはないのです。神様を礼拝するという霊の領域があるのは人間だけです。


 使徒パウロは、八章で肉的なクリスチャンについて書いています。自分の欲望、「自我」が自分の生活を支配し、ある時には教会に行って非常に熱心になり、信仰的に見えるけれども、根底には「自分」が、まだ力をのさばらせているのです。それが「カーナル(肉的な)」クリスチャンと言われる私たちの霊的な姿です。


 世界にはクリスチャンが多いと言っても、肉的で、世的なクリスチャンが大変多いことは否定できません。信仰によって歩むと言いながら、実は自分の利益のために宗教の力を借り、自分の商売のために宗教活動を行い、自分の名声のために宗教の名を借りて、慈善事業をすることもあるでしょう。四〇年ほど前、日本にいた宣教師が、貧民窟で食事を配り、クリスマスの時期にプレゼントを持って行くと、必ず新聞社に行って「私はこんな事をしました」と報告したと聞きました。私はその新聞記事を見て胸を突かれました。神様を信じる人でも自分の行いを吹聴する、新聞で取り上げなさいと言って売り込む人たちがいるということでびっくりしました。「宗教」に名を借りた自己宣伝です。


 しかし、これは四〇年前の宣教師に限りません。私はどうでしょうか。あなたはどうでしょうか。あなたは「教会」という所を自己宣伝のために、自分の利益のために使うということはないでしょうか。私たちは、何が自分の生活の中心になっているのか、私の人生を動かすのは自我か、キリストか、をしっかりと見つめなければならないのです。


 「自分」が中心になっていると、精神的には劣等感が強まり、生活が不安定になります。自分は不適応と考え、絶えず自分を責めるようになります。想像上の恐れや実在する罪の恐れが強まります。そして、心配や疑いが絶えず心の中に渦巻き、抑鬱、不安が苦しめます。日本において大きな社会問題になっている一つです。(続く)

PageTop

ローマ人への手紙(一〇七)

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。」ローマ書六章一二節


 この日本が、本当の意味で神様の救いをいただくためには、私たち一人一人が「自我を十字架につけられ、イエス・キリストの中に生きる」ということを学んで、神の御心に従って生きていかなければなりません。そうしなければ、この国は決して救われないのです。国と言っても、私たちは、信仰によってどこかの国が救われるというようには考えません。神様の救いは一つの国ではなく、個人個人の救いであるからです。世界中どこを探しても、あの国はキリスト教の国だ、と言える国はありません。


 キリスト教的雰囲気を持つ国、信者の多い国はあります。たとえば、フィリピンはクリスチャンの国と言われます。しかし、本当の意味での「クリスチャンの国」ではありません。カトリックの儀式に参加する人は多いです。それは、ちょうど日本が「仏教の国」と言われ、先祖崇拝を行い、葬儀の時だけ数珠を持って葬儀に行くのと似ています。本当の意味で、神様を信じて悔い改め、新しく生まれたクリスチャンの国というのは、まず、どこにもありません。


 私は四〇年近く、毎年フィリピンに行っていますが、行く度に、カトリック教がどれほど「儀式」にとらわれているかを知らされます。九月後半になると、あちこちの広場に大きなスピーカーがつけられて、金曜日、土曜日の夕方五時半頃からガンガン、ダンス音楽が流れます。そして一人だいたい三円で入場券のようなものを買い、踊るのです。その主催者は、カトリックの寺院です。驚くなかれ、カトリックの寺院が、こうしたダンス・パーティーを開いてお金を集め、クリスマスに備えるのだとか。まさに、これは信仰に名を借りた世的な行為ではないでしょうか。


 私たちは「自我」(ego(イイゴウ))というものを、なかなか自分の力で取ることができません。他人の力によっても、取ることは不可能でしょう。小さな子供であっても、自分を守ろうとして嘘(うそ)をつく、親に反抗する、はむかう、社会に牙をむくなど、これらすべての中心に罪(つみ)があるのです。自分の中にひそむ「自我」が、その人を動かしているのです。


 自分の人生は誰が支配しているのでしょうか。自分を動かすものは何か、というならば、自分の中にある罪にとらわれた「我」であると思えばよいのです。それは「身勝手」で、神様に敵対的な力です。(続く)


◎ 暗誦聖句 Ⅰテサロニケ五章一六~一八節前半
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。・・・」

PageTop

ローマ人への手紙(一〇六)

 「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」ローマ六章一一節


 人間には肉体、精神、そして霊(れい)の部分があります。この肉体と精神と霊の部分、特に霊というのは人間の一番中心的な、目に見えない部分です。聖書の教えでは「生まれつきの人間は、この霊の部分が死んだ状態にある。」と言われています。イエス様を信じて新しい生命をいただくとは、聖霊の内住、私たちの霊の部分に聖霊が宿(やど)ってくださるということです。


 ここで問題なのが、東洋人的な思想が出てくることです。日本人は、昔から「心」という言葉を幅広(はばひろ)く使ってきました。日本人が使う「心」という言葉は、英語には翻訳できない、大変奇妙な、しかも幅広い意味合いを持っています。例えば「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があります。小さな虫であっても心が宿り、魂がありますよ、ということで使われます。日本人は心と魂と精神、そして霊という全然違う世界のものを、ごちゃごちゃに混ぜて「心」という表現で扱っているのではないでしょうか。日本人が信仰を理解しにくい理由は、そこにあると思います。


 しかし、生まれつきの人は、霊の部分が暗闇(くらやみ)の中に入っています。使徒パウロはコリント人への手紙の中で次のように書いています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです」(Ⅰコリント二・一四)。つまり、「生まれながらの人は霊のことを知ったり悟ったりできない。」という意味です。人間は生まれつきの知識によっては、神様を知ることができません。それは霊の部分が暗闇の中に死んだ状態にあるからです。



 人間の「霊」の部分は、神様との関係を表します。私たちが神様と交わると言う時、踊りを踊ったり滝に打たれたりして神様と一体となるのではありません。人間の霊(スピリツト)の部分が、神様を礼拝する領域なのです。


 精神(ソウル)と肉体(ボディ)は全ての動物が持っています。精神とは考える領域のことで、小さなペットでもご主人の命令に従い、愛情を示すという精神的な働きを持ちます。しかし、賢いペットであっても、神様を礼拝することはできません。なぜなら、動物には霊の部分がなく、聖霊の働きも無いからです。人間がアメーバから出発して類人猿になり人間になった、というのは暗闇の世界にいる人間の考えと言わなければならないでしょう。はたして類人猿は真の神様を礼拝することができるでしょうか。できません。彼らには、神様を礼拝するという霊の部分が無いからです。(続く)

PageTop

ローマ人への手紙(一〇五) 

 「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」 ローマ書六章八節


 ローマ書六章において、たいへん大事ないくつかの言葉を見ます。イエス様が十字架につけられた時、私たちも(信仰によって)古い性質が死ぬ、ということです。クリスチャンの信仰とは「死ぬ」ことと「新しい生命」という二つの大切な言葉であらわされます。


 私たちは地上において病気あるいは事故等、寿命を全うすることも含めて、死ぬことから逃れることはできません。どんなに信仰があつい人であっても、皆、死ぬ定めにあります。最初の人アダムとエバが犯した神様に対する不従順、不信仰の罪の結果であり、それは今日にまで至っているのです。すべての生きるものに終りがくることは、使徒パウロがローマ書に書いた通りです。


 ローマ書から「死ぬことは、実は永遠の生命の始まりである」ことを知ることができます。この生まれながらの肉の体、アダム以来の生まれつきの肉の性質が死ななければ、新しい生命は私たちを支配することが無いのです。


 聖書の中で、もっとも難しい場所と言われているローマ書の六、七、八章は、クリスチャンの信仰の土台となっています。多くの人たちは「キリスト教は難しい。」と言います。頭の理解も含めて、経験的に自分という「自我(じが)」を神様の前にあって十字架に付けることがたいへん難しいからです。それほど私たちには自分を守りたいという願いが生まれつきあるのです。


 フロイトという学者は、すべての人間が持つ「エゴ」(=自我)と言う言葉を使い、「自我が強い」ということ、「自分の利益だけを追い求める」ということを語りました。


 クリスチャンは全くそうしたエゴイスティックな自我を強調することがない、というと真実ではないでしょう。歴史にみる社会生活、一般社会の中で、たいへん自我が強いことを見ます。


 クリスチャンといえども、このローマ書六章の教理をはっきりとつかまないと、自我の虜となってしまいます。そしてクリスチャンと言いながら、この世の中の流れ、一般の人たちと同じ欲望の虜となってしまうのです。


 もちろん、クリスチャンの場合、あからさまには出しません。むしろ、罪の中にいる人々の方がお金、性欲、物質欲をはっきり表面に出します。クリスチャンはそれをオブラートに包んで、ベールの中に隠します。しかし、その自我は日々の生活、言動の中に徐々にですが、はっきりと、現れてくるのです。(続く)

PageTop

 ローマ人への手紙(一〇四)

    復活なさったイエス様に拠り頼むならば、病気は怖くありません。神様は万物をお造りになった創造主であられます。嵐の海にイエス様が「静まれ」と仰せになると海が静まったように、あなたを苦しめている病気は、恵みの一つとなりうるのです。この教会に来ている方とそのご家族でガン経験者は、私以外に一〇人はいます。それぞれ難しいガンに打ち勝ってきました。


 最近、「全ての医者は西洋医学だけではなくて、信仰について考えるべきだ。信仰の力によって人間の癒しを求めるべきだ」ということをアメリカの医学界は提唱しています。ただし、これはどんな宗教であっても、とにかく何かの宗教を信じている人は強い、と言っているのです。

『リーダーズ・ダイジェスト』の中では、特にクリスチャン医師のことを長く引用しています。日本でも、最初にホスピスを始めたのは結局、キリスト教の病院でした。多くのガン患者は、今、癒されつつあります。新聞の広告を見ると、あちこちの新聞広告に「ガンは癒される」と出ています。裏をかえせば、世界中にガン患者が多くいるということです。


 イエス様を信じる者は、復活のイエス様に合わせられる、ということを病床でいつも思い起こすのです。「神様、私はすでにキリストと共に十字架につけられて死にました。私は今、イエス・キリストの復活の生命によって生かされています。どうぞこの病を癒してください。あなたの御心を行うために、どうか後一〇年でも二〇年でも生かしてください。私は自分のために生きません。神様のご用のために生きますから、生命を与えてください。たとえ病は治らなくても、神様の愛と摂理を信じます。」と祈っています。


 どんなに重い病気であっても、どんな難病であっても、神様はあなたの病気に対して目的を持っていらっしゃいます。そして、「嵐よ、静まれ。」と仰せになったイエス様の力は今も働いているのです。私は今、決して眉唾、作り話をしているのではありません。アメリカの医学界が、「信仰の力を見直さなければいけない。医者はみな、信仰の力をもう一度、大学生の時から教えなければいけない。」と言っているのです。


 神様はあなたの病気と心の痛みを、御言葉によって癒(いや)して下さいます。神様にお仕えしているならば、あなたの人生のご主人はイエス様です。しかし、あなたがイエス様に全てを捧げるのはイヤだと言うならば、あなたの主人は悪魔だと覚えてほしいです。悪魔の支配下にある人は、イエス様とこの教会と何の関係もないことになります。新来者や求道中の方は、一日も早く、イエス・キリストの救いに与れるようお祈りいたします。クリスチャンである私たちは真剣に神様を求め、神様に礼拝をお捧げしたいと思います。(続く)

PageTop