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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(一一六


 ローマ書七章一~四節をお読み下さい。七章は大変ややこしく、何がなんだか分らないとあせり(・・・)を覚えるかもしれません。しかし、いくつかのポイントをつかんでいただきたいのです。ここでパウロは、難しいこの教えを説くために、結婚の例をあげているのです。


 婚姻届を出し、正式に結婚をした夫婦は一体となるとイエス様は仰せになりました。男女が一つの体になって合わせられるのです。故に、片方が別の男性、或は別の女性と仲良くなり、そちらに行ってしまうことは、不幸なことです。結婚によって「二人が一体となり、一人になる」ということは、夫も妻も半人前になるということです。結婚をして一緒になることは、1+1=2ではなく、1+1=1となります。この1を半分にすると、0.5になります。0.5と0.5がくっつくと1です。1+1の結婚ではなくなるのです。


 片方が死ぬと、結婚の誓いはそこで終わります。夫が死ねば未亡人は、再婚しても誰もそれをとがめません。法律もそれを認めています。夫との契約は、死によって完全に解消されるのです。そして新しい出発の再婚は、罪ではないし、神様に祝福されるものになるのです。問題は、結婚という形をとりながら、どちらか片方が別の人と結び合わさってしまうところにあります。律法は、私たち人類をイエス・キリストの福音に連れてくる守役である、とパウロは書きました。


 私たちが、頭だけで「イエス様を信じます。」と言い、教会出席をすることは、「自分自身」が生きた状態であり、まだ律法という力の中に入っているのです。律法は、私たちの罪汚れを徹底的に指摘してきます。


 イエス様を信じる時、古い性質はもう十字架につけられ、葬られ、今、私がいるのはイエス様の復活の体に合わせられる、ということです。英語ではidentify(アイデンティティ) と言います。イエス様と一体となって、永遠の生命に移された、ということです。とすると、片方(私)が死んだのだから、律法は、「待てー!」といって私を追いかけてくることはできません。私が死んだことによって契約が解消されたからです。

律法は、私を手放して自由にしなくてはいけなくなってしまいました。そして今、私が生きているのは、律法の力によるのではなく、イエス様によって新しく造られた私が、キリストの言葉によって生かされてゆくのです。これは一回聞いただけでは納得できないと思いますが、実は、良く知っている経験的な問題なのです。


 「私はイエス様を信じ、これから一切悪いことから離れる決心をした。ところが、友達に誘われ、商売をしていくうちに、また悪いことを始めてしまった。私はなんて罪深い人間だろう。」と、お考えになった経験はないでしょうか。(続く)

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ローマ人への手紙(一一五)

 図の横棒はアダムからずっと現在に至るまで、そしてまたこれから続く人間の歴史を現しています。神様の時が満ちて、イエス様がこの地上においで下さり、私たち一人一人の罪、汚れを十字架の上で背負って下さり、私の払うべき代価をイエス様が肩代わりして、身代わりとなって背負ってくださったのです。


 「イエス様を心にお迎えします。イエス様、あなたが十字架についてくださり、私のために死んでくださったことを信じます。」こう言って心にイエス・キリストの十字架を自分のためであったと受け入れるなら、全世界を治められる創造主なる神様は、完璧な贖いの死であるキリストの十字架の中に入った者、十字架に隠れた者は、すべての罪汚れを罪として見なさない、とおっしゃるのです。


 ローマ書で使徒パウロは、自分はイエス・キリストと一体とされて、古いアダムからの性質は十字架につけられて死んだと「見なしなさい」(reckon) という言葉を六章一一節で使いました。古い性質の自分は死んだ、イエス様と共に十字架につけられて死んだのであるから、今からイエス様を信じて歩く私の人生というものは自分が生きているのではなくして、イエス様の生命が私を生かすのだ、と、そのように考えて行動しなさいというのです。


 以前にもふれたように、死んだ人は罪がどんなに襲ってきても、その罪は彼を征服する力が無いのです。そこにもたらされるのは永遠の命です。


 「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」(ローマ書六章六~八節)。        (続く)

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ローマ人への手紙(一一四)

 多くの人々は、悪魔の存在を忘れたり、無視したりしています。しかし、神様に逆らった天使の頭であった悪魔は、人間の心に働きかけ、時には悪魔の手下が人間の内側に巣食うのです。福音書には二千頭の豚の中に悪霊がうつり、湖で溺れ死んだ記事があります。人間の中にそういった悪霊が宿ることがあるのです。


私たちは、今、悪魔がこの世を支配していることを理解しなくてはいけません。悪魔は政治の世界も支配し、また人間を争いに駆り立て、地上に平和がこないように、神様の御計画を破壊するようにたくらんでいます。マスコミの新聞記者、あるいはテレビの解説者に注意するだけではなく、その背後にあって聖書の教えに立とうとするクリスチャンの心を混乱させようとする悪魔の力が働いていることを、忘れてはいけません。


 使徒パウロはエペソ書において、「御霊の剣を持って武装しなさい。」と教えています。二千年前と同じく、私たちの敵は人間対人間という争いよりも、悪の勢力と神様の側の勢力ということなのです。その本質を見落としてはいけません。


 実は、私たちの心の中にも悪魔の力が働いて、イエス様を信じるまでは罪の性質を持ち、自我そのものが人生を動かす原動力となっていました。Ⅰテサロニケに人間は、霊、精神、肉体の三つの部分からできていると書かれています。神様と交わりを頂く、神様との関係にかかわる部分が人間の「霊」の部分です。


 しかし、人間の霊の部分は生まれたときから死んだ状態なので、神様を自分の力で認めることができません。日本人の多くが誤解するのは、精神と霊の領域をごちゃ混ぜにして、混乱を招いています。それは、聖書に記されている真の神様に背を向けているためです。しかし、聖書ははっきりとこのギリシャ語の原語とあうように、霊と精神、また肉体というのは別々の領域を持つと教えています。外側は肉体、その内側は精神であり、更にその中心に霊があると示しています。

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ローマ人への手紙(一一三)

 マスコミが、私たちを暴力的な存在と非難しても、暴力で戦うのではありません。ペンで書かれたものには、ペンで戦いをするのです。こうした報道関係の人たちが、公正さ、事実確認、人権尊重ということを言っておきながら落ち着いた平和な生活を求め、聖書を信じて生活しているクリスチャンを、「危険な存在」として大新聞が叩いている実情は、決して黙っている問題ではないと思います。


 考えてみてほしいのです。読売新聞は、発行部数一千万部、朝日新聞は七百~八百万部と言われています。この二つの大新聞千七百万部以上がクリスチャンの信仰生活をねらい撃ちしていたのです。しかも、読売新聞に至っては、編集手帳の記者は、日本の外務省は何をやっているのか、もっと情報を収集するべきである、危険な存在の者を探し出して、注意しなくてはいけない、と言っていたのです。


 これはイスラム過激派ではなくて、聖書の根本に立つ皆さまのことも干渉しろ、と言っているのです。買い物に行くにも、たえず電柱の後ろから、一人あるいは二人が無線機をもってあなたを追跡したらどうでしょうか。あるいは、あなたの会話を全部盗聴されたらどうでしょうか。しかも、それはいたずらではなく、いつどんな殺戮行為、テロを犯すかわからない存在として後(あと)をつけねらわれる(・・・・・・・)としたら、これはまさに人権侵害であり、民主主義の崩壊につながってくるのです。


 だからこそ、私たちはローマ書一三章で、「上に立つ者のために祈れ」と教えられているように、神様のお立てになった権威の座にある者のために祈らなければならないのです。私たちは他国の指導者を批判する前に、まず日本の政治を動かしている日本の政治家のために祈らなくてはなりません。そして二~三人の仲間たちだけではなく、できるだけ多くのお友達にもそれを話してもらいたいと思います。


 新聞・印刷物の威力は、皆さんの想像以上に、強い力をもって人々の心に入ってゆきます。しかも、新聞報道は、自分たちが誤報を流しても、それを訂正する記事は小さく、一~二行で終わってしまいます。私たちは一度見たもの、読んだもの、聞いたものが大きな割合を占め、後から出たものはほとんど読まないものです。そういう恐いマスコミというものが、今、私たちの足元を狙っているということを覚えてほしいです。こうした背景には、人間の心を動揺させ、その心を神様から引き離そうと、悪魔の力が働いているということを忘れてはいけません。(続く)

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