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習志野バプテスト教会の週報

◆聖書が示す、聖書を学ぶ理由(5)

         ▽「 私たちの主であり
           救い主である
           イエス・キリストの
           恵みと知識において
           成長しなさい。 」
           (Ⅱペテロ三・一八) 
         


   ステュワート・カスター博士がお書きになった "Tools for preaching and teaching the Bible"(聖書を説教し、教えるために必要な道具) という本からの続き。    

 聖書に記されている主イエス・キリストのお姿(すがた)を黙想(もくそう)する時に、その信者は御霊によってキリストのお姿に似るように像(かたち)造られ、より主のお姿に似る者とされていく。御霊は絶えず、信者の内に主イエス・キリストのご性質が像造られるように働かれている。信者が御言葉の内を歩んでいく時に、その人の外見までも変わっていく。故に、主と共に歩んだ聖徒のある者の表情は美しく輝いていたのである。私たちも主と共に歩むならば、私たちの生活を通して主のご臨在(りんざい)が明らかになる。信者にとってこれ以上の祝福はないであろう。    

七、神様についての知識を得るため    

 使徒パウロは次のようにも言っている。〝 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです〟(Ⅱコリント四・六)。    

 聖書に記されている主イエス・キリストについて多く学ぶほど、神様についての正しい知識を得ることが出来る。この知識は神学的な定義や単なる神の属性(ぞくせい)に関する情報ではない。聖書の中で「知識」という言葉は通常「真実な交わりとその知り合った人との一体性」を意味する。    

 信者は神に従い、神のために生き、神を喜ばせることを求めるという意味で神を知っているのである。「神はこのようなお方だと聞いた」というような知り方ではないのである。この「知る」という言葉の驚くべき使われ方は、夫と妻との性的な交わり、即ち結婚における最も親密(しんみつ)な関係で、二人が一体となることを意味し、それを婉曲(えんきょく)に表現しているのである(創世記四・一、マタイ一・二四~二五)。    

 聖書で使われる「知る」は単なる情報ということをはるかに越えた「交わり」「一体性」を意味する。み言葉に記されている主イエス・キリストに思いを寄せる信者は神のみ心に従うとき、神様と一体とされる喜びを経験する。それこそ、神を知ることなのである。その人がキリストと共にいたかどうかが分かるのである(使徒行伝四・一三)。    

八、み言葉の祝福を他の人に分かちあうため    

 全ての信者はⅠペテロ三章一五節にあるように、〝あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明(べんめい)できる用意を〟しておくべきである。(続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  テモテ前書五章一七節
〝善(よ)く治(おさ)むる長老(ちょうろう)を一層(ひときわ)尊(とうと)ぶべき者(もの)とせよ。 〟

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