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習志野バプテスト教会の週報

◆ 聖書が示す、聖書を学ぶ理由(1)

    ▽ 聖書は
    〝わたし(イエス・キリスト)
     について証言しているのです〟
     (ヨハネ五・三九) 
         

   ステュワート・カスター博士がお書きになった "Tools for preaching and teaching the Bible"(聖書を説教し、教えるために必要な道具) という本から、聖書を学ぶべき理由について紹介しよう。以下はその翻訳である。    

 信者はみな、聖書がよい書物であり、学ぶべきだと知っている。しかし、多くのクリスチャンは、霊的な助けを得るための聖書の学び方を知らない。牧師と忠実なクリスチャンの働き人は、招きの時に霊的な助けを求めて前に出てくる人の九九%が聖書を毎日学んでいない、と分かるだろう。彼らは、神様が定められた基(もと)い(聖書)からその日に必要な助けを求めていない。平均的なクリスチャンは、「なぜ聖書を学ぶのか」と尋(たず)ねられると、答えに困ってしまう場合が多い。故に、聖書そのものが私たちに示す、聖書を学ぶべき理由を考えてみよう。    

一、霊の糧(かて)を得るため    

〝生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋(じゅんすい)な、み ことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、 救いを得るためです。〟(Ⅰペテロ二・二)    

 乳を飲まない赤ちゃんは危険な状態にある。正常な赤ちゃんはミルクが欲しいと泣く。生まれたばかりの赤ちゃんが健康のためにミルクが必要なように、回心したばかりのクリスチャンは霊的な食物が必要である。その日その日に、必要な食物を神様のみ言葉から頂かなければ、クリスチャンになったばかりの人は霊的に危険な状態になる。    

 聖書は救われたばかりのクリスチャンのためのミルクだけでなく、成長したクリスチャンのための固い食物(肉)も与えてくれる(ヘブル五・一二~一四)。霊的な食物はもう必要がないということはありえない。日曜日に大きなステーキを食べた人が、「わたしは来週の日曜日までもう何も食べないで大丈夫」といえるだろうか。    

 土曜日までにはお腹がすきすぎて、ふらふらして、歩くこともできなくなる。しかし、あるクリスチャンは、この人と同じような愚(おろ)かなことをする。日曜日の礼拝にだけ出席して、説教のみ言葉が次の日曜日まで十分もつと考える。毎日、毎日、しかも一日に三回食事をとるように、神様のみ言葉を毎日頂かなければならない。    

 「聖書はもう理解した。読み飽(あ)きた。」と言える人は誰もいない。聖書は無限の書である。クリスチャンは生涯(しょうがい)をかけて神様のみ言葉を学ぶのだ。そして、み言葉を学ぶ中で、さらに成長し、み言葉の深い意味を教えられ、力を与えられる経験をしていく。    

 詩篇の作者は、〝あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜(みつ)よりも私の口に甘いのです。〟(一一九・一〇三)〟と叫(さけ)んだ。長く聖書を学べば学ぶほど、クリスチャンにとってみ言葉は甘いものとなる。(続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  テサロニケ前書五章一七節
〝 絶えず祈れ〟

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