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習志野バプテスト教会の週報

◆ 消えていくものと永遠に続くもの

   ▽「愛を追い求めなさい」
     (Ⅰコリント一四・一前半)
     お母さんの愛に
     感謝の気持ちを
     伝えよう
           


  愛の章を締めくくるこの区分(八~一三節)は、時間的制約のもとにある二つの重要な過程を示している。この世にあって愛を促進させるための僕である信者にのみ与えられる過程である。一つは、啓示が与えられる過程であり、もう一つは、聖化の過程である。この二つのゴールは愛である。 この章の最後(一三節)に、クリスチャンの心を支配する、もっともすぐれた愛と、信仰と希望との関係が記されている。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

  ☆愛は啓示が与えられていく過程のゴール(八~一〇節)

  預言(預言者を通して神様から直接に与えられる啓示)、異言(解き明かす人がいるならば、神様からのメッセージを人々に伝えることが出来た、超自然的な霊の賜物)、知識(これまでに与えられた黙示を理解する力)はみな、神様のご性質とご意志を理解する大切な手段であった。しかし、預言、異言、知識はすべて一時的なものであり(八節)、神様のご性質とお心を部分的に知ることが出来るものにすぎない。パウロは「私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」(九節)と言っている通りである。

  神様を理解するための一時的、かつ部分的な手段であるこれら三つのうち、もっとも議論を呼んでいるのが異言である。近代の異言に関することを含め、異言についてカリスマ運動がもたらした神学的混乱と非聖書的な教えに関しては詳しく、しかも分かりやすく、ポイントを押さえた論文が多く書かれているので、ここでは簡単に三つのことに触れておこう。

  ①異言という霊的賜物は、超自然的に外国語を話す力であり、未信者に対するしるしであった。また、教会の創生期において、神の民に啓示が与えられる手段でもあった。聖書は、異言について明確に教えている。使徒二・四~一一、エペソ二・一九~二二、Ⅱコリント一二・一二、ヘブル二・三~四を参照せよ。

  ②異言は、数多くある霊的賜物の一つにすぎない(新約聖書には五ヶ所で、一九の霊的賜物が記されている)。すべての信者が異言の賜物を与えられたとは記されていないし、異言の賜物は救いの確証でも、御霊に満たされることのしるしでもなかった。

  ③「異言ならばやみます」(八節)の動詞「やみます」は中態(ギリシャ語には、能動態、受動態、中態がある)で、何か外部の影響で消滅するのではなく、自ら自然に消滅していくことを示している。

  【ハンキンズ博士解説より】(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 テモテ前書二章四節
〝神(かみ)は凡(すべ)ての人(ひと)の救(すく)はれて、眞(しん)理(り)を悟(さと)るに至(いた)らんことを欲(ほっ)し給(たも)ふ。〟 

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