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習志野バプテスト教会の週報

◆ 積 極 的 な 愛(二)

   ▽「すべてのことを、
     つぶやかず、疑わずに
     行ないなさい。」
     ピリピ二・一四
          
           


  (先週の続きで【S・ハンキンズ博士解説】から)
「すべてを信じる」という意味は相手に関していつも最善を信じ、別の人が言いふらしている誹謗や中傷を信じないことである。罪に対する訴えは、うわさではなく、二人か三人の正式な訴えがある場合にのみ、取りあげるという原則(Ⅰテモテ五・一九参照)にクリスチャンは従うべきである。

  クリスチャンから積極性を奪うかもしれない別のことは、私たちの願い通りに計画が進まない、あるいは期待はずれな事がおこる、ということである。故に、愛に満ちた生活をおくりたいと願うクリスチャンは、「すべてを期待」しなければならない。望み通りに物事が進まなくても失望せず、悲観的にならず、ぼんやりとしない。「もう、努力しても無駄だ。何一つ変わりはしない。思うようには何一つならない。」とつぶやくことはしない。

  難しい状況におかれ、状況は更に悪くなることしか考えられない時、そのプレッシャーは大きく、クリスチャンから相手を思う心遣いや、与えようとする心を奪ってしまう可能性がある。そうであると、フォーカスは自分の内面にむかい、自己憐憫(れんびん)におちいってしまう。それ故、使徒パウロは、愛に満たされたキリストの弟子はすべてを耐え忍ばなければならない、と命じた。キリストを信じる者が、主に従う決心をし、状況がどんなに悪くてもそこにとどまり続けると決めるならば、聖霊なる神様は助けてくださる。正しい働きのためであるならば、どんな困難をも耐えぬく力を信者にお与えくださるのだ。

  〝愛は決して絶えることがありません。預言の賜物なら ばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすた れます。 というのは、私たちの知っているところは 一部分であり、預言することも一部分だからです。

  完全なものが現われたら、不完全なものはすたれま す。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

  今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が 完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 〝こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 〟 コリント前書一三章八~一三節
       (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 テモテ前書 二章四節

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