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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(396)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟(きようだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、躓(つまづ)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。〟
   ロマ書一六章一七節

  年(とし)を重(かさ)ねるに従って、腰や背骨(せぼね)が痛い、ヘルニアかも知れないと考えることはないだろうか?レントゲンを撮(と)ると、骨と骨をつなぐゼリー状のものがペシャンコになっていたりして、姿勢(しせい)が悪くなってくる。姿勢が悪いだけならいいが、皆さんの体から背骨をとってしまったらどうなるだろうか。それこそ、クラゲのようになってしまって、立つことすらできなくなる。

  クリスチャンの信仰も同じである。イエス様が処女(しよじよ)降誕(こうたん)されたこと、神様であるということ、あるいは十字架、そして神様の預言(よげん)の通りに復活なさったということは聖書全体の福音(ふくいん)、骨(ほね)組(ぐ)みである。そうした骨組みを骨抜きにしていく人たち、イエス・キリストがただ愛の化身(けしん)であるとか、神は愛であるから誰とでも仲良くしましょう、手をつなぎましょう、というだけでは聖書のとらえ方(かた)が間違(まちが)っているのだ。

  パウロはここで何と書いているだろうか。〝汝らの学びし教えに背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、つまづきをおこす者に心してこれに遠(とおざ)かれ〟とロマ書一六章一七節に書いている。遠(とおざ)かりなさい。分裂、分派を起こす者たちは、不平、不満、批判(ひはん)、あるいはうわさ話に明け暮(く)れたり、議論をふっかけるとか、また、愛がない状態であったり、間違った教えを人々に吹(ふい)聴(ちよう)するという人々である。

  間違った教えを持ってくる人たちも、聖書の言葉を使うが、聖書全体の重要な教理、骨格(こつかく)をはずしてしまう。そして、聖書を自分の都合(つごう)にあわせて断片的(だんぺんてき)にとらえて「これがクリスチャンの信仰ですよ。」と、呈示(ていじ)しようとする。なぜそうした人たちから私たちは遠ざからなければならないのか。それは、その人たちから悪影響を受けて私たちの信仰自体の屋台骨(やたいぼね)が崩(くず)れてしまう危険があるからだ。

  〝その誡命(いましめ)はこれなり、即(すなわ)ち我(われ)ら神(かみ)の子(こ)イエス・キリストの名(な)を信(しん)じ、その命(めい)じ給(たま)いしごとく互(たがい)に相愛(あいあい)すべきことなり〟ヨハネ第一の手紙三章二三節

  〝互に相愛する。〟教会に来ている人たちが皆、互に愛し合っているのは麗(うるわ)しいことであるが、その愛するということには、イエス・キリストを信じ、イエス様に従っていくという前提がある。健全な信仰を抜きにして、健全な兄弟愛は生まれてこない。教会を荒(あら)そうとする人たちは、聖書、聖書とやって来るけれども、一番大切な聖書の根本的(こんぽんてき)な教理を捨(す)て去ってしまっている。そして生半可(なまはんか)なやさしい言葉で愛によって結ばれようというのは決して正しい信仰の立場ではない。

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四〇篇八節前半
〝 わが神(かみ)よわれは聖意(みこころ)にしたがふことを樂(たのし)む
 (なんぢの法(のり)はわが心(こころ)のうちにありと)〟

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