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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(392)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。〟
   ロマ書一六章一七節

  皆さんの中には、結婚なさる時に恋愛ではなくお見合いでという方もいらっしゃると思う。牧師も激しい恋愛をしたというのではなく、宣教師にだまされて結婚をした。だから最初の一〇年間は大変だった。「こんなはずではなかった。」とがっかりすることがお互いにあった。(「すべての事が相働いて益となった」が。)

  「知る」ということは、「頭」で知ることと確信的に「心」で知るという二つの面がある。

  私たちが経験的に、イエス様を知るという時には、聖書をスーッと通読してイエス様とはこういう人物であったということではないはずだ。

  ある学者が、「イエス様は二千年前にお生まれになり、三三年の生涯を十字架上で終えられた」と話した。この学者の話を聞いて得た知識は、単に聞いて知ったことに他ならない。

  けれども、「そのイエス・キリストが私の罪(つみ)けがれを背負って、十字架について死んで下さった。だれでもその十字架を見上げるならば救われるという救いの道を開いて下さったお方であり、十字架につけられ死んで墓に葬られ、三日の後に復活をなさり、今、天において私たちのためにとりなしの祈りをして下さっているお方である」ということを信じ救われたというあなた。

  しかも私たちは毎日祈ることによって、「神様はまことのお方であり、その約束に偽(いつわ)りはなく、全く正しい神の正義と神の深いあわれみ、愛がある。」ということを経験的に知っているとするならば、あなたはキリストを経験的に知った人であり、これがパウロの使っている「知る」という言葉である。

  旧約聖書を見ると、〝イサクは~を知った〟とか、〝アブラハムは~を知った〟という表現がある。これは頭で知っているということではなく、夫婦の肉体的関係を持ったということで「知った」と書かれている。この場合には、経験的に一緒に何かをするという意味ではなく、経験的に自分たちが夫婦の契(ちぎ)りを交(か)わしたという意味で「知る」のである。

  イエス様の愛を知る経験をした者は毎日毎日、神様のみ言葉を学ぶことが大切である。学ぶということはただ読むだけではない。聖句の意味、社会的時代背景、誰から誰に対して書かれたかを知る。どういう状況下で使徒パウロがこの手紙を書いたかを知る。囚(とら)われていてじめじめした牢獄の中で書いたのか、それとも明るい空の下でこれを書いたのかを知る。あるいは、彼はどういう思いがあってこのことを書かざるを得なかったのかなど、背景を探っていく。福音を生きようではないか。                  ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三六篇一〇節
〝ねがはくはなんぢを知るものに、たえず憐憫(あわれみ)をほどこしたまへ 〟

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