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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(391)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。〟    ロマ書一六章一七節
  仮に「私は習志野バプテスト教会の婦人宣教師を知っています。」と言っても、日曜日に教会でピアノやオルガンを奏楽し、日本語をペラペラと上手に話す、という知り方である。先生の内面を全て知っているわけではない。同じように聖書を読んだからといって、すぐさま神様のすべてを知ったとは言えないのである。

  仮に学校で、聖書の話やイエス様のことを勉強し、試験のために(聖書を)徹夜で勉強してテストで百点満点を取ったとしても、それは本当の意味で「知っている」ということにはならない。聖書で「知る」という言葉を使う時には、二種類のギリシャ語が使われている。一つは、一般的に聞いて「知っている」という表現である。例えば、先ほどの「婦人宣教師を知っている」という表現である。

  皆さんは私のことをどのくらい知っていらっしゃるだろうか。不思議な人間だと思われているかも知れない。講壇に立つと、怖(こわ)い、しかめ面(つら)をして説教をするきびしい牧師だと思っておられるかも知れない。家にいる時、ときどき娘が「お父さんのこんな姿を教会員の皆さんが見たら、どう思うかしらね。」などと言うことがある。

  私は、神様のお言葉を説き明かす講壇は聖別されている所であるから、悪ふざけをしたり、皆さんを楽しませるためにおちゃらけたりということはできない。み言葉を説き明かすには、品性と確信と同時に、み言葉のもつ神様の権威を象(しよう)徴(ちよう)することが重要だ。しかし一旦講壇を降(お)りたら、普通の罪(つみ)ゆるされた人間として、さらに皆さんと同じ弱さや足(た)りないものを持つ者としてお互いの交(まじ)わりをもっているのである。

  では、五〇年以上生活を共にした牧師夫人は牧師のことをよく知っているかというと、まだまだ完全には知らないし、牧師も牧師夫人のことを完全には知らない。けれども少なくても生活を共にしていれば、「うちの主人はこういう食べ物が好きで、こういう食べ物は嫌いだ」ということはわかる。また、牧師が黙って黙々と食べていれば、何か考え事をしているなとか、あるいは今日の味噌汁は甘すぎたか辛(から)すぎて不機嫌なのだとか、色々と判断することはできる。けれども、本当に相手が何を考え、何を思っているかという奥底までを知ることはむずかしいと思う。

  ましてや私たちは、イエス様の生涯を勉強しても、聖書のお言葉を通り一遍(いつぺん)読んだだけでは、イエス様が神様でいらっしゃるゆえのすばらしいお力や愛と憐(あわ)れみをことごとく知ることはできない。                    (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 ヨハネ一五章四節A
〝我に居れ 〟

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