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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(364)

         ▽ み言葉に生きる


  〝われ汝(なんじ)らに到(いた)るときは、キリストの満(み)ち足(た)れる祝福(しゆくふく)をもて到(いた)らんことを知(し)る。〟
    ロマ書一五章二九節

  クリスチャンになると、神様により頼(たの)むようにはなるが、神様に対して甘えることはない。なぜなら、もし、私たちが「甘え」というものを持つならば、自分の罪というものを認めなくなるからである。それだけではなく、他人の罪に対しては「あなたはこういう事をやった。」「ああいうことをやった」と責めるが、こと自分自身のことになると「みんなやっているから、いいじゃないですか。私の責任ではないですから。」と言って甘えてしまうようになる。でもそれは本来クリスチャンにはできない。「神様ごめんなさい。私はこういう事を間違えました。」と、神様にお詫(わ)びをする。

  福音そのものは、私たちを神様と正しい関係に立たせる。神様の御前(みまえ)に罪をもったままで立つことはできない。神様に「神様。私は自分自身を救うことはできません。私は毎日不安と戦い、病気と闘(たたか)い、お金の事で心配(しんぱい)をし、人間関係で思い煩(わずら)い、いつも自分が傷(きず)つくことを恐(おそ)れています。私は魂の自由を得たいです。」と願うことが必要であるからである。世間体(せけんてい)とか、みんなの目が気になるということはそれだけ、自我(じが)が強いということである。それではある国会議員のように、堂々と大手を振って「私もやりましたから。」と言って肩で風を切って歩くのが良いかというと、そうでもない。

  その犯(おか)した罪は必ず、民数記略の聖句にあるように〝汝の罪は汝の身に及ぶべし。〟(三二章二三節)なのである。各自、蒔(ま)いた種を必ず刈(か)り取らなければならないのだ。私たちが神様を見上げ、神様を自分たちの救い主として仰(あお)ぎ望(のぞ)む時に、自分が本当に弱い人間であると認(みと)めるようになる。

  私の亡(な)くなった兄は、大変若い頃から職業意識、職人気質のある鋳物(いもの)工(こう)であった。父の代からの鋳物工のたたき上げの職人であった。私が何か言うと「フン。俺たちは信仰に頼(たよ)らない。俺が頼るのは自分の腕(うで)しかないんだ。」といつも自慢(じまん)していた。自分の才能、自分の力を過信(かしん)していたのである。

  しかし、この兄もそれから三〇年ぐらい経(た)ってから、ついには自分の心に迫(せま)ってくる罪の問題で、神様を呼(よ)び求(もと)めるに至(いた)った。私たちは、自分たちの力ではできないことを知ることが大事である。〝汝自(みずか)らを知れ〟と、昔の賢人(けんじん)も教えている。神様がくださるところの福音、それは愛に満(み)ちたものである。神の愛を、そして神の憐(あわ)れみを私たちに、もたらすものである。
      (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句   ヤコブ書一章五節前半
〝汝らの中(うち)もし智慧(ちえ)の缺(か)くる者あらば、咎(とが)むることな く、また惜(お)しむ事(こと)なく、凡(すべ)ての人に與ふ(あたう)る神に求む べし。然(さ)らば與(あた)えられん。 〟

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