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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(362)

         ▽ み言葉に生きる


  仮(かり)に自動車を運転していて、何かを器物(きぶつ)損壊(そんかい)してしまったとしよう。どこかの屋敷(やしき)の塀(へい)を壊(こわ)してしまった時、まずすることは何であろうか。キョロキョロ周(まわ)りを見まわすのではないだろうか。誰か見ていないかなと。私(わたし)たちは自分のやったミスを隠(かく)したい。できればその場(ば)を黙(だま)って立(た)ち去(さ)りたい、という誘惑(ゆうわく)が起(お)きる。とっさの事なので、普段(ふだん)は一生懸命(いつしようけんめい)まじめにやっている人でも、とっさに、あっと思ったときには嘘(うそ)を言ってしまう。子供を育てるとわかると思う。

  小さい子供がミスをした。「これをしたの、あなた?」「ぼくじゃない。」「うちのタマがやった。」と猫のせいにしたり、すぐ自分じゃないと言ってしまう。自分を守ろうとする思いがある。

  自我(じが)。人間誰もが持っている自我、エゴである。自分を守ろうとする思いが大変強く働(はたら)く。 劣等感(れつとうかん)。私は幼(おさな)い頃から劣等感の虜(とりこ)になっていた。大変辛(つら)い心の状態であった。何をするにしても自分が劣等感を持ってやるので、試験でも夢中になって勉強するわけである。それは、自分が成績が悪くなったら恥(は)ずかしいと言う思いからである。

  劣等感の持(も)ち主(ぬし)は裏(うら)を返(かえ)すと、一〇〇点満点(まんてん)でなければ、気(き)がすまない、完璧(かんぺき)主義(しゆぎ)ともいえよう。私たちは完璧主義というとすごく立派(りつぱ)だと思うが、完璧主義者は、劣等感があるから完璧を求めるのである。なぜか。恥ずかしい思いをしたくない、自我を守ろうとするから、そうなるといわれている。

  私たちは、日本という社会にあって義理(ぎり)、人情(にんじよう)という大変(たいへん)厳(きび)しい社会の制約(せいやく)の中で生まれ育ってきた。「そんなことをしたら恥(は)ずかしい。」「あんな事をやったら、みんなに笑われる。」そうした世間体(せけんてい)というものが私たちを不自由にしている。

  自分でこうしたいと思っても、親に「そんなことをしたらみんなに笑(わら)われるよ。おかしいよ。みんなそんなことやっていないから。」と言われてしまう。日本人がよく使うのは、「みんなが」そうやるよ、という言葉である。

  葬儀(そうぎ)の際(さい)、一般の葬儀屋さんは、家族全員がどうしようかと迷(まよ)っている時に、「皆さんそうやっていますから。」と言う。喪主(もしゆ)は、「それじゃあ、お願いします。」と言(い)ってしまう。「皆(みな)さんやっていますから」と膨(ふく)らんでしまい、初め一〇〇万円でできるはずのものが、三〇〇万円、五〇〇万円とふくらんでしまう。きっかけは「皆さんそうしていらっしゃいます。」ということである。「それならそうしましょ」となってしまい、その誘(さそ)いに乗(の)ってしまうのである。 〝愛する者よ、惡(あく)に效(なら)うな、善(ぜん)にならえ。善をおこなう者は神より出(い)で、惡をおこなう者は未(いま)だ神を見ざるなり。〟     ヨハネ第三の書一一節 (続)

 

  ◎ 暗誦聖句 箴言一章七節前半(Proverbs 1:7 a)
"The fear of the Lord is the beginning of knowledge."
〝エホバを畏(おそ)るるは知識の本(もと)なり。 〟

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