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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(359)

         ▽ み言葉に生きる


  でたらめな宗教団体が多いために、教会にもかなり厳しい締め付けが数年前から始まった。もともとは、ある宗教団体(日本で大きな勢力を持ち国会議員が大勢出ている団体)が、驚くほど巨額なお金を宗教法人格を利用して集めていることを、自民党の議員がおそれ、法律で厳しくとりしまろうということであった。しかし、ふたを開けてみれば、まじめにやっているキリスト教会が苦しみ、網に被(かぶ)さった状況にある。信仰の自由は憲法で保証されたものであるのに、骨抜きになったようになり、これからの日本がどのように変わっていくのか不安である。

  クリスチャンになると自分は迫害を受けるのではないかと、考えてしまう人もいる。また、そういう理由でバプテスマを受けるのをのばす人もいる。バプテスマを受けると自分は教会員になるからと、いろいろと将来の事を考えこんでしまうのである。

  私も高校生の時から教会に行き始め、イエス様を信じるという決心をしながら、なかなか心の安らぎを得ることができなかった。最初、東京の日本キリスト教団の教会に行っていた。英語のバイブル・クラスがあり、英語の勉強という名目で行ったのである。その後、いくつかの教派教団の教会を転々とした。青年時代の魂の遍歴(へんれき)であったと思う。有名な作家の小説を読みあさり、日本の有名な伝道者の本も読みあさった時代がある。教団に行ったときには洗礼まで受けた、しかし、後に聖書を読んでいて「洗礼」というのは聖書の言葉ではない、「全身を水に浸(ひた)す」=「バプテスマ」こそが聖書的な教えであると、学んだ。頭にチョロチョロと水を流す適礼も、罪を洗い清めると考える洗礼も聖書的ではない。イエス・キリストを信じる時に、私たちの罪は主の血潮によって清められるのである。

  人が死ぬと遺体を葬(ほうむ)る。インドでは、人が亡くなると、大きな台の上に遺体を乗せて鳥たちにその遺体を食べさせるという。これも一つの宗教儀式だと思うが、一般的に「葬る」というときは、地面、あるいは岩をくりぬいてその中に完全に葬る。沖縄では、セメントで作った立派なお社(やしろ)の中に遺体、お骨(こつ)を納(おさ)めるが、一般的には、遺体は、地面の中に完全に葬り、そして、土を被(かぶ)せる。これが葬りだと思う。それと同じように、バプテスマとは、私たちもイエス様と共に十字架につけられて死に、そして、葬られる、だから完全に水の中に、全身を浸す(沈(しず)める)のである。そして、死んだ者が復活をする、あたかもイエス様が葬られ、そして三日目に甦(よみがえ)られ、復活なさったと同じようにする、いわば「象徴」である。これが、水の中に完全に浸され、そして出てくる、甦(よみがえ)りを表す「絵」である。(続く)

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