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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(345)

         ▽ み言葉に生きる


  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟 
      ロマ書一四章一三節

   中国には『韓信(かんしん)の股(また)くぐり』という有名な古事(こじ)がある。大勢の人の前で股をくぐれと言われた奸臣が、カーッとなってけんかをするのではなく黙って股をくぐったという有名な話だ。

   「忍耐」とは、他の人の重荷の下に自分を置くということだ。私達にとって忍耐をするのは大変むずかしい。

  〝我等(われら)はみな神の審判(さばき)の座(ざ)の前に立つべし。…我等おの おの神のまえに己(おのれ)の事(こと)を陳(の)ぶべし。〟
            ロマ書一四章一〇節、一二節

   子供の兄弟げんかを見ていると、はじめは口げんかで、やがておもちゃを投げたり暴力をふるうようになってくる。それを見ていた母親は、たいていの場合「あなたはお兄ちゃんでしょ。この子はまだ小さいんだから…。」と言って兄の方をしかる。すると、子供は子供ながらに抵抗する。母親に自分の正当性を訴え、それでも認められないとふくれっ面(つら)をしてバタンとドアを閉(し)め、自分の部屋に閉(と)じこもる。

  小さい時から私達は、正義とか正しい判断を求める。大人の皆さんも、職場や家庭において誰かが正しい判断を下(くだ)してくれるようにと願うのは当然なことであると思う。

  この世の中には判断を下(くだ)すものがいくつかある。自分が所属する社会の取り決め、規則、社会のしきたりや社会の目、国の法律や裁判などが一つの判断基準であろう。しかし、忘れてならないのは、私達をおつくり下さった神様の最高の裁(さば)きがあるということである。

  〝人、よろしく我(われ)らをキリストの役者(えきしゃ)また神の奥義(おくぎ)を 掌(つかさ)どる家司(いえつかさ)のごとく思うべし。さて家司に求むべき は忠実ならん事(こと)なり。我(われ)は汝らに審(さば)かれ、或(あるい)は人の 審判(さばき)によりて審かるることを最小(いとちいさ)き事(こと)とし、自(みずか)らも 己(おのれ)を審かず。…我をさばき給う者は主(しゅ)なり。〟
         コリント前書四章一~三節、四節

  私たちは皆、善につけ悪につけ、まことの神様によって最終的な裁きを受ける存在であると使徒パウロは書いている。神様によって私たちは裁かれる。パウロは多くのユダヤ人、同胞によって非難され、命を奪われようとした。異邦人からも命を奪われようとした。しかし、パウロは「私は忠実な家司(いえつかさ)のように神様にお仕えする。私をお裁(さば)きになるのは真(まこと)の神様お一人でいらっしゃる。だから、どんな人間の裁きにあっても私はおそれない。」と言って、信じるところを貫(つら)き通した。(続)

 

 
◎ 暗誦聖句 エペソ書四章二三節

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