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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(334)

▽ み言葉に生きる


  〝さらば食(くら)うにも飲むにも何事(なにごと)をなすにも、凡(すべ)て神 の栄光を顕(あらわ)すようにせよ。〟
     コリント前書(ぜんしょ)一〇章三一節 

  使徒(しと)パウロはコリント前書の中で「神様を信じる者にとって、食べるのも飲むのも、また毎日生きるのも神様の御栄えのためである。私たちは神様によって生かされ、神様をほめたたえつつ歩むのだ。だから、生きることも死ぬことも神様の導きのもとにあるのだ。」と書いた。

  〝なんじ何(なん)ぞその兄弟を審(さば)くか、汝なんぞその兄弟を蔑(なみ)するか。我等(われら)はみな神の審判(さばき)の座の前に立つべし〟
      ロマ書一四章一〇節

   彼は、ロマ書においてもキリストにある兄弟姉妹が争(あらそ)い合い、裁(さば)きあってはいけないと強調した。そして「信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れなさい。」と書いたのである。

  〝我が愛する者よ、偶像を拝(はい)することを避(さ)けよ。〟
    コリント前書一〇章一四節

   「偶像(ぐうぞう)崇拝は罪ですよ。」とよく言うが、はたして「偶像なる神」は本当に存在するのだろうか。「八百万(やおよろず)の神」と日本人は言い、東京タワーのてっぺんにも偶像をまつっている。また多くの店舗やデパート、会社などでも偶像がまつられている。近所にあった日立精機などでも鳥居(とりい)があったり偶像がまつられていた。人間は、偶像のことだけを考える。台湾に行くと大きな神社がある。馬の形をした神々の形が飾ってあったり、それこそ中国にもたくさんのこうした偶像がある。

  しかし、神様がご覧になる時には、この世界には「偶像なる神は無(な)い」ということが大前提にある。使徒パウロはコリント前書一〇章の中で「偶像は存在しない。真(まこと)の神様以外に神々は存在しない。」と、はっきりと断言している。これをまず覚えていただきたい。

  小さい頃、私はたいへん臆病だった。東京の荒川沿いに住んでいたので、八月の夕方になると「みんな行ってみよう。」と子供達が大騒ぎをした。荒川放水所であがった土左衛門(どざえもん)のことである。水でおぼれた、もしくは自殺した人の遺体は、おなかがとてもふくらんでいた。皆が行くからと、一緒に遺体を見て帰ってきてからが大変であった。その晩、夜中にトイレに行きたくてもこわくて行けないのである。植木の影なのだが、人影が映っているように見えて、もう怖(こわ)くてしょうがない。怪談の話や夕方見た遺体がちらちらして眠れなかった。(続)

 

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