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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(317)

▽ み言葉に生きる


 

  使徒パウロはロマ書一二章一節から一五章一三節までにおいて、人生を全く変えられた人々の生活の中に「神様の義」がどのようにあらわされているかを教え、記している。

  〝されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧(すす)む、己が身を神の喜(よろこ)びたもう潔(きよ)き活(い)ける供物(そなえもの)として献(ささ)げよ、これ霊の祭なり。又この世にならうな、神の御意(みこころ)の善にして喜ぶべく、かつ全(まった)きことをわきまえ知らんために心を更(か)えて新(あらた)にせよ。〟
               ロマ書一二章一、二節

  ロマ書一二章一、二節は、基本的な聖別、神様への献身(イエス様を信じた人すべてが神様に自(みずか)らを献(ささ)げる)について書いている。もともとバプテスマそのものが、イエス様と共に十字架について死に、また葬られ、復活をするという象(しょう)徴(ちょう)である。つまり、私たちクリスチャンは、イエス様を信じた時に、自分の古い性質は死んだと考える。今は、イエス様の生命によって生かされていると認めるのである。バプテスマにより、イエス様と一つ体に合わせられた、一体とされたというのが使徒の強調点である。

  そして日々神様に、身を捧げていく。そういう中にあって特別に神様から、召しをいただいた人たちの「献身」がある。バプテストの伝道者スポルジョンは、次のように書いている。「どのような働(はたら)きの献身者であっても、その人が神様に伝道者としてあるいは宣教師として召されているかどうかの召(め)しを示される。また本人と同時に、生涯神様に献身をして、み言葉を述べ伝えていく器であるかどうか、を牧師の心にも示される。あの兄弟、あの姉妹は神様に召されたに違いない、という証(あかし)を牧師の心にもお与え下さるのだ。」と。

  また、教会で長く信仰生活を守っている教会の執事、あるいは、役員、信仰のあつい兄弟姉妹の心の中にも、あの兄弟、あの姉妹は確かに神様に召されているのではないか、とわかる証(あかし)が与えられると書いている。

  では、その証とは何か。まず第一に、その人が熱心に礼拝を守っているということ。犠牲を払ってもまず礼拝を第一にし、すべての集会に忠実に出席しようとする証である。

  それから、み言葉の受け止め方が素直であり、自分勝手な解釈をしないで、正しく神様のみ言葉を学んでゆき、受け止めていくことも必要である。そして、いつも祈りや奉仕、献げ物も忠実に行い、積極的に神様の御用(ごよう)を担(にな)っていこう、証しをしようという姿勢(しせい)が見られることももちろん大切である。「神様どうか私をお使い下さい。」と言って自分をささげていく。献身生活をしていく中でも、主のみこころならば、国内ではなく、海外への宣教師として御用をしていきたいと重荷を持つのである。                ( 続 く )

 
◎ 暗誦聖句 使徒行伝一章八節
〝然(さ)れど聖霊なんじらの上に臨(のぞ)むとき、汝ら能力(ちから)をう けん。而(しか)してエルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、 及(およ)び地の極(はて)にまで我が証人とならん。〟

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