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習志野バプテスト教会の週報

イエス・キリストの愛

「イエス・キリストの愛(あい)の広(ひろ)さ、長(なが)さ、高(たか)さ、深(ふか)さがどれほどであるかを理(り)解(かい)する力(ちから)を持(も)つようになり、人知(じんち)をはるかに越(こ)えたキリストの愛を知(し)ることができるように」とパウロはエペソの信者のために祈った(エペソ三・一八、一九)。キリストの愛を、私たちはどれほど理解しているだろうか。私たちは、キリストの愛の広さを知るために祈る必要がある。

 パウロは「キリストの愛が私たちを取(と)り囲(かこ)んでいる」(Ⅱコリント五・一四)と記している。キリストの愛を知ったパウロは、「もはや自(じ)分(ぶん)のためにではなく、自分のために死(し)んでよみがえられた方(かた)のために生(い)き(る)」と決心した(Ⅱコリント五・一二)。私たちはどうであろう。パウロと同程度までにイエス様の愛を知ることが出来ないとしても、イエス・キリストの愛を今よりもよく知ることができるなら、私たちの人生は必ず変わる。

 「人知をはるかに越えた」ことを簡単に理解することはできない。父なる神様の御(み)前(まえ)にひざまずき、御霊(みたま)の助けによって、神様の大きな愛を理解できるように祈ろう。「…彼(かれ)は、私たちのそむきの罪(つみ)のために刺(さ)し通(とお)され、私たちの咎(とが)のために砕(くだ)かれた。彼への懲(こ)らしめが私たちに平(へい)安(あん)をもたらし、彼の打(う)ち傷(きず)によって、私たちはいやされた」(イザヤ五三・五)を黙(もく)想(そう)しよう。自分のことばかり考える心の醜(みにく)い者であり、様(さま)々(ざま)な罪に汚れた私のために、イエス様はどうして死んでくださったのだろう。「イエスなんて知らないし、信じない」と言ってイエス様を侮辱(ぶじょく)し、拒絶(きょぜつ)していた私のために、どうして身代わりとなって十字架の上で死んでくださったのだろう。イエス様の一方的な愛がその答えである。

〝信(しん)仰(こう)の創(そう)始(し)者(しや)であり、完(かん)成(せい)者(しや)であるイエスから目(め)を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍(しの)び、神の御(み)座(ざ)の右に着(ちやく)座(ざ)されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反(はん)抗(こう)を忍ばれた方のことを考えなさい。それはあなたがたの心が元気を失い、疲(つか)れ果(は)ててしまわないためです。〟ヘブル一二・二、三

 誰かにつけられた傷と自分自身の罪のためにつけてしまった傷を見つめるのをやめよう。心が疲(つか)れ果(は)ててしまい、悲しみと後悔(こうかい)だけの人生になってしまう。私たちの全ての罪を負って、十字架の上に死んでくださったイエス様の傷を見つめよう。イエス様の愛は永(えい)遠(えん)に変わることがない(ヘブル一二・八)。そして、復活なさり、神の御座の右に着座された、勝利の主イエス・キリストを見つめよう。

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