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習志野バプテスト教会の週報

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ローマ人への手紙(二)

パウロは「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ一・一五)と書いています。自虐的(じぎゃくてき)な表現ではありません。自らの歩んできた道を振り返り、イエス様を信じる人々を迫害(はくがい)し、恐ろしい過去を持つ者として、「罪人の頭(かしら)」であるという風に表現したのです。

「僕(しもべ)」は、単に仕える人を意味するのではありません。僕(しもべ)というと、立派な御殿で仕える下僕、召使いを私たちは思い浮かべます。しかし、使徒パウロが使った「僕(しもべ)」は、奴隷を意味します。「デューロス」というギリシャ語は、「仕える者」よりもはるかに低い、最低の、いわば、自由を完全に奪い取られた奴隷の姿を意味します。この意味で、使徒パウロは自らを「キリスト・イエスの奴隷」と言ったのです。

「サーヴァント」あるいは「僕(しもべ)」と言うとかっこよく聞こえますが、奴隷といえばイメージは大変悪くなります。パウロは敢(あ)えて「キリスト・イエスの奴隷」と言う言葉で、人々の前に自らの証しを続けようとしました。旧約聖書の出エジプト記には、奴隷であった者が自由になれるにもかかわらず、ご主人の愛と恩のゆえに、奴隷として生涯その家族と一緒に過ごすことを決心した人について記されています。パウロもそういう意味で、「キリスト・イエスの奴隷」と言いました。ですから、自由を奪われ、何の決断も出来ないという意味での奴隷ではありません。自らを喜んで神様の僕(しもべ)として、奴隷のようにお仕えしていく決意であり、自分の願いよりも主イエス・キリストのお心に従っていこうとする姿を表現しています。

あなたは「私はキリスト・イエスの僕(しもべ)」と言うことが出来るでしょうか。「キリスト教会は私の僕(しもべ)」と考えていないでしょうか。イエス様の救いは、「私がこの地上で生活するための便利な助け」と考えていないでしょうか。世の中には、信仰でさえも立身出世(りつしんしゆつせ)や経済的な利益のために利用する人がいます。実際に、日本の裁判所では、こうした宗教裁判が多くあります。仏教系統や新興宗教、またキリスト教の異端の中でも裁判となっている例がたくさんあります。特に異端の中には、信仰や宗教を自分の利益のために使っている人たちが多く、そのために、裁判所から、元信者に何千万というお金を返すように命じられる判決がくだされているのです。(続く)

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