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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(二〇)

 「というのは、不義によって真理を阻(はば)んでいる人々のあらゆる不敬虔(ふけいけん)と不義に対して、神の怒りが天から啓示(けいじ)されているからです。」   ローマ一章一八節

 クリスチャンではない日本人は「キリスト教は愛の宗教である」と言い、クリスチャンも愛を強調します。なのにどうして神様の怒りや神の裁きを語るのか、と疑問に感じるのは自然といえるかもしれません。多くの人は、何でも受け入れるのが愛だと考えるようです。

 私たちはもう少し「愛とは何か、神様の怒りとは何か」を聖書を通して考えてみる必要があります。

 日本人に「どういう信仰を選ぶか」と質問すると「もし信じるならばキリスト教が良い。でも厳しいから、なんでもOKという仏教がよい」との答えが本音(ほんね)のようです。日本人は「仏教徒」が多いです。仏教はもともと無神論であり、神はいないと考えます。無神論とあきらめを強調します。仏教は「何でも良いからいらっしゃい」と暖かく包み、観音様は愛の女神と強調する人もいます。

 一方、日本には歴史の中で「キリスト教徒迫害」という事実があります。飛騨(ひだ)高山(たかやま)には隠(かく)れキリシタンの墓があります。隠れキリシタンは日本の幕府がキリストを信じる人々を迫害したため、天井裏に信じる書物を隠したり、墓石の上には観音様を書いて、そのおでこに十字架、地面の下の方にマリア何々と、洗礼名を書いた墓石もあります。実際そこに行ってみて、日本の民族的な歴史、血みどろの戦いがあったことを知り、身の引き締まる思いがしました。

 「愛」はすべて何でもよいというものではありません。仮に母親が自分の赤ちゃんを盗まれた時、むこうで世話をしてくれるからいいわと考えるでしょうか。

 半狂乱になり、子どもを探し、自分が血を流す事があっても、いとわないでしょう。愛は愛する者を失うことをおそれるし、奪い返そうと戦うものです。もし、学校で「親をうやまわなくてもよい。自分の好き勝手なことをして生きてよい」と教えられたら、私たちはその学校から子どもを連れ戻すに違いないです。愛は愛するものを守ろうとし、間違ったものから奪い返そうとします。

 神様は何でもかんでも罰を与え、さばきを与えるお方では決してありません。神様の真理の言葉を曲げ、神様以外の物に自分達の人生をゆだねようとすることに対して、怒りをお持ちになるのです。全て邪(よこしま)な事をしようとするもの、まがった事をやる者達に対して神の怒りがあらわされるのです。(続く)

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