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習志野バプテスト教会の週報

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ローマ人への手紙(二三)

人間は永遠の命と強い力を求めながら、それらをお与え下さる神様に従おうとしません。神様は、神様に従う人達には永遠の命をお与え下さると約束してくださっています。親を敬うことなく親を殺したり粗末にする子供に対して裁きが来るように、神様をないがしろにする人間に対しても厳しい裁きがあるということがローマ人への手紙一~二章に述べられています。

 「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼(かつれい)に何の益があるのですか。あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委(ゆだ)ねられました。では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

 『それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます』と書いてあるとおりです。では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。『善をもたらすために悪を行おう』ということになりませんか。

 私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです」ローマ三・一~九

 ユダヤ人は、「自分達は神様から律法を与えられている」と豪語(ごうご)していました。社会生活の中で神様の前に聖別された者であるという契約のしるしとして「割礼」を受けていました。「割礼」というものは信仰があってはじめて意味があるのですが、信仰がなければ何の意味もないものです。

 新約時代になると、割礼は信仰のあかしではなくなりました。体にではなく、心に割礼を受けよ、というのです。「心の割礼」とは、罪の世界から神様によってきよめ分(わか)たれ、分離をさせられることです。罪の状態は、ユダヤ人も全(すべ)ての外国人も同じです。神様を認めていない不信仰、不従順の罪の故に神様は裁きをお命じになりました。神様の律法、旧約聖書のおきてを持つ者も持たない者も等しく神様の前に口を塞(ふさ)がなくてはならない、というのが三章一九節です。

 「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」ローマ三・二〇(続く)

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