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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三八)

 人間は自転車と同じで、止まっていると倒れてしまいますから、一生懸命こがなければいけません。多少下手でも、こいでいれば走っていきます。本当に上手になると少しぐらい止まってもじっとしていますが、たいていは止まれば倒れます。ですから、それまでは夢中になって自転車をこぐように、私は人生を走ってきました。

 でも、イエス様を心にお迎えした時に、まったくイエス様におゆだねして、通常の走り方をしないでもすむようになったのです。なぜならば、イエス様が私の罰を受けて下さったからです。そして、これまで怖(こわ)い怖いと思って神様に背を向けていた私が、今度は神様の方に向かって「神様、ありがとうございます。」という親しい交わりを与えられるようになりました。その確信となったのが、ローマ五章一、二節の聖句です。

 私達は自分の良い行ないで、一方、ユダヤ人は割礼(かつれい)を受け、律法を守るとか儀式や戒律を守ることによって神様にご褒美をいただこうとして、失敗しました。割礼を受ける者も、割礼を受けない者も、神様に受け入れていただくためには、ただ一つ、「信仰」しかありません。

 神様がご用意下さった救いの方法である、イエス・キリストを心にお迎えするという信仰によって、初めて神様に受け入れていただくことができるのです。私達は神様に「あなたは無罪放免ですよ。罪を一度も犯したことがないと同じように認めますよ。」と言われるために、何をするべきでしょうか。献金でしょうか。

 「これまで献金は一〇〇円やっていたけれど、思い切って一万円にしよう。」そうではないのです。イエス様がご覧になっていた時に、貧しいやもめがレプタ二枚をささげました。レプタは当時のお金の最小単位(一レプタ=約三九円)で、そんなわずかな献金を、恥ずかしそうにしてささげたその未亡人は神様に大変大きな祝福を頂いたのです。神様が見ていらっしゃるのは、私達の献金の額ではなく、私達の心がどれほど神様に向いているか、神様をお喜ばせするか、です。

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」       ローマ五章一節

 夫婦が、ちょっとした争いからお互いに口もききたくない、顔も見たくない、「お前なんか出て行け!」「出て行きますよ。」と、お互いにケンカしてツノ突き合わせている時には、結婚するんじゃなかったと思うでしょう。別の女性と、あるいは別の男性と結婚すればよかったと思うのではないでしょうか。「神様との平和」、何というすばらしい安らぎに満ちた御言葉でありましょうか。(つづく)

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