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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三七)

 日々の生活において、何かを恐れ、逃げるということは大変不幸な人生だろうと思います。

 小さい時から何か悪いことをすると、すぐ親や周りの人に「そんなことをするとバチが当たるよ。」と脅かされた覚えはないでしょうか。ご飯粒をお茶碗の端っこにつけたままで「ごちそうさま」と飛び出そうとすると「待ちなさい!ご飯粒をちゃんと食べなさい。そんなに粗末にするとバチが当たるよ。」と怒られたものです。

 とにかく、「罰(ばち)が当たる、バチが当たる」と言われてきました。当然これは、日本人が考える神々で、偶像の神々にバツを受けるということなのです。こうした日本人の宗教感覚がさすものは、バチが当たる怖い存在の神々、あるいは亡くなった人たちの霊です。「仏様を粗末にするとバチが当たるよ。」と言われて、仏壇に手を合わさせられる。

 いつも人間の感覚は、「恐れ」「おののき」そして「何とかして罰(ばち)があたらないように・・・。」というものです。私もいろんな形で、葬儀のお手伝いをさせて頂きますが、日本人は、この「罰(ばち)」、「汚(けが)れ」という観念からなかなか抜けられません。

 仮に、ここが六畳間の部屋だとします。そして、ここに今、息を引き取ったばかりの遺体が置かれているとします。その部屋が日本人の家庭では一番大事な居間、リビングだとすると、大抵そこには神棚があり、別室には仏壇があります。まず葬儀屋さんが来ると、「半紙はないですか。」と尋ねます。半紙をどうするのかと思って見ていると、神棚に紙を張り、神様たちがこの汚れを見ないように、というわけです。

 不思議に思うのは、汚れ汚れと言いながら人間はその汚れたものに手を合せて拝み、全く理に反することをしているのです。汚れたものを神様に見せてはいけないと言って半紙を張り、「神様、見ないでね。」とやっていて、自分達はこっちで手を合せて拝むという、こうした矛盾したものが日本人の「神」に対する考え方なのです。

 私は聖書を読んで本当に感謝したことは、こうした恐怖、不安から解放されるということでした。いつも悪いことをすると、「バチが当たる。」あるいは、「そんな人生を送っていると、何か必ず後(あと)で後悔するような罰(ばち)が来るぞ。」というようなことを言われて、まわりをキョロキョロ見回しながら、自分は本当に安全だろうかと過ごしてきたのです。そういう状態は非常に不安でした。イエス様を心にお迎えするまで、私の人生は真正面にずっと突き進んでいなければならないと考えていたのです。

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