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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三三)

 「贖(あがな)い」、「救い」とは、カバーすることです。「カペナウム」は、その言葉のなごり(・・・)です。ナホムという人の所へ無実の罪で逃げ込む人は、神様がその人を覆(おお)ってくださる、カバーしてくださる、ということです。「カバー・ナホム」がカペナウムという地名になりました。

 旧約時代、仮にあなたが誤って人を殺してしまったり、正当防衛であったにもかかわらず、あなたが捕らわれようとするならば、「逃(のが)れの町」に行けばよかったのです。大祭司(だいさいし)が替(か)わる(死ぬ)までそこに滞在し、あとは無罪放免となったのです。

 過越しの祭(まつり)の時には、イスラエルの人たちは子羊の血をとって、ドア(出入り口)のかもい(・・・)に塗りました。その血塗られたドアを見る時に、神様の御使いたちがその家を裁かず通り過ぎて行った「過越しの祭」と同じなのです。イエス・キリストの十字架を自分のためであったと信じる人は、神様の裁きが来る時に過ぎ越していただける、そして、神様は「わが愛する子よ。」と呼んでくださるのです。

 こんな素晴らしい経験を私たちはお金で買うことはできません。ただ、神様の御前にひれ伏し、「罪深い私を救ってください。罪を赦してください。」とお願いするだけで、生涯あなたの宝となっていくのです。

 ローマ三章二三節に、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と記されています。ここには、日本人もロシア人もアメリカ人もイギリス人も全く区別がありません。すべての人、一人残らず、人間は誰もが神様の御前に不義を働き、罪を犯してきました。そのために、神様の御栄光、すなわち聖さ、正しさ、正義、完全、あるいは慈愛深さ、愛というものをまったく持ち合わせていません。罪の中にある人間は自己中心的であり、罪に汚れ、頭の中で考えることすべて、罪汚れで満ち満ちています。

 私が伝道者になったばかりの時、同僚の牧師の子が幼稚園でお買い物ごっこに使うおもちゃのお金を持ってきてお兄ちゃんに言いました。「角のタバコ屋さんのおばあちゃん、目が悪いでしょう。今度このお金を持っていって、だまそうよ」。その牧師はびっくりしました。わずか四歳の子供が、おもちゃのお金で目の悪い人を騙そうと発想するとは・・・。

 その子はキリスト教の幼稚園に行っていたのです。まさに人間は罪の子である、ということを目のあたりにしました。教育で人間を変えることはできないことを心にとめましょう。警察官が酒に酔って自動車の事故をおこすことも同類でしょうね。「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ三・二四)。    (つづく)

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