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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三二)

 私たちは、何年、何十年と信仰生活を続けても、自分自身で正しい、義となることはできません。神様に受け入れられる義となることはできないのです。ここが間違いやすいところです。「私は信仰歴四、五〇年ですから救われた時より、はるかに義が私のものになりました。」と言うのはとんでもないことで、一生かかっても自分自身では義を得られません。

 あくまでも、それはイエス様から頂くところの義であって、自分の性質の変化や努力の結果ではないのです。「その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(Ⅱぺテロ一・四)。

 信仰生活ですばらしいことは、日、年を追って、イエス様のご性質を頂き、毎日、心の中に霊的な変化が与えられるということです。皆さんが、お風呂に入って体をこすると出る垢(あか)は死んだ細胞です。人間の体の細胞は毎日、新陳代謝(しんちんたいしゃ)をしています。古くなって死んだ細胞が垢となって落ちていくのです。それ以上に私たちの心の中、神様を礼拝するために与えられた霊は、日々新しく変えられていくのです。また、肉体が食べ物を必要とするように、霊の人格は神様のお言葉である聖書、霊のまことの乳を慕い求めます。

 聖書を読む度に、私達は自分自身が神様に近づけられ、毎日汚(けが)れが洗い流されていきます。そして、新しく変えられていきます。イエス様を信じる人は、一〇年前、昨年、あるいは今年の初めとは決して同じではないのです。新陳代謝をし、絶えず成長していきます。

 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」       Ⅱコリント五章二一節

 Ⅱコリント五・二一を見ると、神様は「罪を知らない方」、すなわち、イエス・キリストを私たちの代わりに罪として下さり、私が抱えている罪(つみ)、汚(けが)れをイエス様が身代わりとなって受けて下さった、とあります。そして、イエス・キリストの中にある私を神様がご覧になる時、「私はあなたを赦(ゆる)す、あなたが全く汚れがないと同じような状態として認める。」と言ってくださり、無罪放免とされます。

 もう過去の罪に怯(おび)えて、誰かに後ろ指さされるのをびくびくする必要はなくなったのです。子供時代の友達の誰かが、「お前の悪いことを全部知っているぞ。」と言っても大丈夫です。イエス様を信じる時に、神様によって罪、汚れは全部洗い流されるからです。

イエス様は、私の罪の数々を数えて、「お前はこういう悪い人間だ。」とはおっしゃいません。イエス様を心の中にお迎えし、イエス様の十字架の血潮(ちしお)によってすっぽりと、完全にカバーされ、覆(おお)い隠(かく)される、これが贖(あがな)いの教理(きょうり)なのです。(つづく)

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