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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(二八)

 「ローマ人への手紙」の三大テーマの「義」という言葉が意味するところは、イエス・キリストを信じるならば、私たちは神様によってまだ一度も罪を犯したことがないと同じように認められるということです。信仰によって義と認められることから「信仰義認(ぎにん)」という言葉ができています。

 義認の次に、イエス様を信じる人たちが、日々の生活の中で聖書を読み、黙想し、それを日々の生活に当てはめていき、知らず知らずのうちに神様の御前にあって生活が変えられていき、神様に喜ばれるものに変わっていきます。日毎に古い生活から離れて、新しい、清められた生活に進んでいくのが「清く変えられる」ということで、聖書の聖という字に化粧の化で「聖化(せいか)」と言います。

 ローマ書の三大テーマの第一は「義認」、義と認められることです。第二は「聖化」、清く変えられるということです。罪人がイエス様を仰ぎ望むことによって、一日一日先に進んで、イエス様の「きよさ」に似るように変えられていくということです。第三は、やがて天においてイエス様と同じような栄光の姿に変えられることです。「栄化(えいか)」と言います。

 まず、義認について考えてみましょう。

 「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ三・二一~二四)。

 神様の義とは何を意味するのでしょうか。日本人は昔から義という言葉が大変好きな民族です。群馬県の人は、国定忠治という有名な人物の物語りを聞いてきたことと思います。なぜ国定忠治は有名であり、日本人に愛されてきたのでしょうか。それは義という一つの言葉にあります。国定忠治に使われた義は、勿論、聖書が教える義とは月とスッポンのような違いがあります。似て非なるものというか、似ているようで本質的に違うものです。

 義という言葉は、日本人は小さい時から聞かされてきたのでなじみのある言葉です。しかし、「神様は義なるお方」と聖書がいう時には、天地万物をお創りになった創造主なる真の神様が持っていらっしゃる神ご自身の性格的な義という意味を持つのです。それ故、人間が自分が正しいとか、私は義を重んじるとかいう義とは雲泥の差があります。全てのものをお創りになった創造主である神様の本質が、神は義なるお方であるということなのです。  
                   (つづく)

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