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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(二九)

 「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。」             ローマ三章二一節

 義なる神様のご性格とは何でしょうか。それは、第一に義そのもの、正義、あるいは裁判における正しい裁き、そして完全さ、神様ご自身が持っていらっしゃる正義と正しい裁きをなさるということです。同時に、神様ご自身が全く一点の翳りも無く、罪けがれも無いお方だということを表します。

 そして、この全能の神様の汚れなき義の前に立つ私たち人間は、全く汚れたものです。例えれば、自動車のエンジンルームを開けて油を拭いたボロボロの汚い布のようなものです。それを旧約聖書の預言者イザヤは、人間の義はぼろ布のようであると言っています。

 「バチが当たるような生活は絶対にしていないし、正しい生活をしてきた」と言っても、神様が私たちの生活をご覧になる時、それは汚れてどうしようもないものであるということです。ウェディング・ドレスの白は汚れがない純白であることを表します。まだ一度も使ったことのない白いハンカチと、二、三回使って漂白剤で洗濯したハンカチと比べてみれば、どちらが白いでしょうか。

 私たちが、どんなに白いと自慢しても、やはり生活の垢、ほこりなどハンカチの中に染みついています。人間には正しい行いと思えるものであっても、神様の純白な義の前に立たされるとき、それは汚れに満ちた状態です。使徒パウロは、ローマ書一章・二章において、神様から旧約聖書の律法を与えられたユダヤ民族にしても、何一つ誇るところが無いと言っているのです。

 彼らは神様の律法を破り、そして又、モーセを通して与えられた十戒を完全に守ることさえできませんでした。ましてや、神様のお言葉を知らないユダヤ人以外の異邦人は、誰一人として神の前に正しいとか、義とされる人はいないのです。全ての人間は神様の御目にあって汚れに満ちた存在です。

 「義人はいない。一人もいない」(ローマ三・一〇)と聖書に書かれているとおりです。こんな状態の人間に対して神様は超法規的な救いの方法をお与えくださったのです。
                   (つづく)

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