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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三一)

「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。」ローマ一〇・四

 イエス・キリストは、ご自分を信じるすべての人達のために、旧約聖書の律法、神様の掟、律法の終わりとなって下さいました。

 さらに、新約聖書ピリピ三・九をみると、「キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです」とあります。

 私たちは、自分自身の生活の中では、何一つ正しいと思われるものはありません。神様がご覧になる時に、汚れに満ちているということです。民族博物館や、韓国の民族館などに行くと、昔、女性が使っていた手鏡、女性が姿を映してお化粧するための鏡が並んでいます。これらを見ると大変分厚い銅板で、銀色に鈍い光を放っています。あれでよく顔が見えたな、と思うような薄暗い表面しかない銅板、それで化粧をしたのです。

 それで髪を整え、時には川の淵で女性は髪の毛をとかしました。髪の毛を洗ったり、とかしたりする姿が漢字の「女」という字になります。今の発達した鏡をみると非常にきれいで、お風呂場の蒸気があっても、蒸気がパーッと消えてしまうくらい立派な鏡です。なまじ、こんなにきれいな鏡を買うんじゃなかったと思うほどです。

 私も白内障が少し出ているので、もうじき手術をしなければならないと言われました。今、境界にあるそうで、聖路加国際病院の眼科の先生に「最近、夜、車を運転すると一つのライトが五、六個に見えてきれいです」と言うと、「それこそ白内障です」と言われました。

 光が乱反射して一つのライトが無数に見える白内障の症状が出ます。私たちは、自分が美しいと思っていても、光がよく反射する鏡の前に立つと、こんな所ににきびがあった、しみがあった、そばかすやしわがあったと、やたらに見えてきます。年をとったら銅板を使った方が良いのかもしれません。銅板の方が小じわだとかしみを見ないで、「いつも美しい」と思えるかもしれませんから。

 「義」を考える時、私たちは罪そのものを忘れることができません。正しいものがあればその反対の極に悪いもの、罪があります。神様は、神様がご用意してくださった義の贈り物を人間に与えようと約束なさっています。誰でもイエス・キリストを信じる者には神の義を与えると約束してくださいました。そして、「義」というものを自分の持ち物として神様から頂くのです。              (つづく)

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