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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(五五)

 自死しようとする人や登校拒否をする人達に対して、「神様は、『あなたは宝であり尊い者であるから自分自身の人生を粗末にするな。』と語られている。」と思って使用しているのでしょうか。

 しかし、聖書の御言葉は、時には本来の性質そのものが意味する前後関係から離れて、一人歩きをすることがあります。

 まず原則的に大切なことは、「聖書の御言葉は、前後関係を全く無視して適応することは避けなければならない」ということです。

 なぜかと言うと、使徒パウロはⅠテモテ一章一五節で「私はその罪人のかしらです」と書いています。自分自身を決して宝(たから)であるとか尊いとは言わなかったからです。

 「私は本当に価値のない者である。陶器師は土をこねて器を作り、悪い物はつぶしてしまうのにも関わらず、神様はあえて私を生かして下さる。」という思いがあったのでしょう。私は罪人であり、罪人の頭であるにも関わらず、神様は私を救って下さったのだ、という表現なのです。それはローマ五章においても同じです。

 「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」    ローマ五章六節

 私たちが尊いからイエス様が死んで下さったということよりも、私たちが弱くて何もできない時に、神様に逆らっている時に、罪深い私のためにイエス様は十字架について死んで下さった、こうして神様の愛を表わして下さったのだと書いてあるのです。

 ジョージ・ワシントンというアメリカの大統領の大変有名な逸話を覚えていらっしゃいますか。

 彼がまだ子供の頃、お父さんが斧(おの)を買ってくれて、彼はその斧でお父さんの大事にしていた桜の木を切ってしまいました。

 どの辺りまでが事実かわかりませんが、学校で習ったワシントンの逸話として覚えているでしょう。彼は、切れそうな斧をもらってすぐ「手当たりしだいに切ってみよう。」と思いました。


 神様は私たちに「あなたは私と正しい関係に立つならば、あなたの信仰によって私の十字架を受け入れ、信仰を働かせなさい。」とおっしゃるのです。ワシントンのことを忘れても結構ですが、斧は切るためにあります。

 では、信仰は何のためにあるのですか。「信仰、信仰、信仰」と念仏を唱えるようにあるのではありません。信仰は使うためにあるのです。では、どういう事に信仰を使うのでしょうか。

 皆さんが病気の時、あるいは必要に迫られた時、「神様、どうか今、家族に必要な食べ物を下さい。経済的な必要を満たして下さい。」と祈りますね。

 また受験勉強の時、「神様、この学科が不得手で集中できません。どうか助けて下さい。」と祈るでしょう。これもまた信仰の働きなのです。

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