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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(五九)

 「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ五章八節


 私たちは力のない者、弱い者で、希望のない者であり、絶望の状態にありました。「私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています」(詩篇六九・二)。


「昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ」(詩篇三二・四)。

こんな状態にあった私たちです。そして私がなお罪人で、「イエス様なんか信じない。聖書も読まない。何もしない。」という不信仰な状態の時に「キリストは罪人である私のためにも死んで下さった」のです。

この場所を読むと、私は「本当に自分は神様の一方的な憐みによって生かされているんだなあ。」とつくづく思い、「生涯、主にお仕えしたい(献身(けんしん))、証(あか)ししたい。」と思うのです。

 小学六年生の夏、川の中で溺れかけました。太平洋戦争が終わる五ヶ月前の三月九日、東京大空襲があり、焼夷弾が落ち、我が家が焼ける寸前、火の中で守られました。

米飛行機の機関銃掃射の中を逃げ惑った時も助かりました。アメリカで伝道中に黒人に殺されそうになった時や、船が大しけで揺れて沈みそうになった時も、様々な苦しみの中にあって神様はいつも守って下さいました。

一九八八年、両目の出血で二年以内に失明すると言われました。アメリカで手術の道が開かれましたが、五年もてば良いと言われました。今も目は守られています。その二年後、前立腺ガンで入院しました。

手術無しで、祈りで癒やされました。神様は信じる者を決してお見捨てにならない、ということを実体験として味わってきているのです。

 私たちが神様を愛したから神様が救って下さったのではないのです。「キリスト教は大嫌いだ。」と言っていた私が神様によって救われたのです。まさに神様の一方的な愛と憐れみのゆえです。

もちろん、今でも私は弱い人間で、罪を犯して負けることがあります。でも、負けても、つまづいても、私には帰る場所があり、受け入れて下さる神様がおられるのです。

 空を飛ぶ鳥は夕暮れが迫ってくると、ねぐらに向かって帰ってゆきます。私たちは自分の休む場所、霊魂の憩いの場を、イエス・キリストの中に見出すことができるのですから、何と幸せなことでしょう。

 イエス・キリストは私たちの身代わりとなって下さったのです。旧約聖書の出エジプト記を読みますと、エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの人々が、神様の裁きの御使いが来る時に家の入り口のかもいの所に血を塗りました(出エジプト記一二・七、一三)。

そして裁きの御使いたちは、かもいに血が塗ってある家は通り過ぎ、神の裁きが過ぎ越したと記録されています。これが「過ぎ越しの祭り」の起こりです。(続く)

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