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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六一)

 仮に、皆さんが何か事故を起こし、他人の物を壊してしまったら弁償すれば、相手はそれで満足するでしょうか。

 仮に私が知人に「ちょっと車を貸して下さいね。」と言って、ちょっと塀を擦っちゃったとか、何かあった時、「ごめんなさい、こんなにしちゃって。つまらない物ですが。」と風呂敷を出し、中に入ったお詫びの品を渡します。

 そうすると、相手はそれ以上、文句を言わないでしょう。これはおもしろい習慣だと思います。「何だ、こんな物、持ってきて。」と目の前でつき返すかもしれません。「まあ、そんな気を使わなくていいんですよ。」と言って許してくれることが多いのでは、ありませんか。

 私たちは何か悪い事をしたならば、その代価を払わなければいけません。払って元どおりになるかと言えば、そうではないでしょう。相手に迷惑をかけ、相手の物を壊したということで、宥(なだ)めの供え物が必要です。

 「ごめんなさい。」と、余分な物を出さなくてはならないことがあります。

 イエス様は犠牲となり、供え物となり、さらに私たちを買い戻してくださったのです(ヘブル九・一二、二六、ローマ三・二三、二四)。


 テレビの報道で見たことです。若い男女が崖っぷちにいました。
 女性の足が滑って谷の方に落ちそうになった時、男性は助けようと懸命でしたが、どうしても彼女を引き上げることができません。

 そこへ山岳部で活躍していた二〇代半ばの男性が飛んで来て、彼女を救い上げたのです。

 しかし、その時に助けた本人は足を滑らして谷底へ落っこちて、川で溺れて亡くなったのです。

 一つの美談かもしれません。亡くなった青年の親元にその男性から、一〇万円が送られてきました。

 女性は助かってすぐ、彼の姿が見えなくなってしまったので、誰だか分かりませんでした。男性は「これから先は弁護士と話し合って下さい。私に一切、連絡しないで下さい。」ということでした。人ごとながら、私は「良かった。」とは思えませんでした。

 仲のよい友達か恋人同士だったかはわかりませんが、その女性の命を助けて犠牲になった男性が亡くなったのにです。その行為に対して一〇万円ポーンと送って、それ以上私と関わらないで下さいと言ったのです。

 恐ろしい時代になったな、と思いました。同じことを私たちはやっていないでしょうか。

 イエス・キリストは、私の罪のために死んで下さったのです。それにも関わらず、私たちは神様に対して感謝の思いすら表そうとしないのです。

 「生かされている」その感謝の思いを、神様への奉仕、また信仰を働かせることによって、神様の御栄えを表す生き方をしないならばこの青年たち以上に私たちは恩知らずで、罪深い状態ではないでしょうか。(続く)

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