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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六二)

 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」 ローマ人への手紙五章一節

 世界中いつの時代においても、日曜学校の生徒をはじめ、多くの人が一度は耳にしたことがある聖書の有名な聖句があります。

 それは、ヨハネの福音書三章一六節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」



 この御言葉は、多くの伝道者がくり返し、くり返し説教してきましたし、また有名な伝道者はこの聖句一つで一年間、礼拝のメッセージをしたという逸話も残っています。

 どんなに深く掘り下げようとしても、このヨハネ三章一六節を私達は完全に解き明かすことはできないと言われています。


 しばしば引用されているキャンベル・モルガンという聖書学者は「私にとってこのヨハネ三章一六節は、説教することが大変難しい聖句です。私はこの聖句を通して皆さんにお話することは不可能です。」と言いました。この聖句を読むならば、それに付け加えることはできませんし、差し引くこともできません。

 あの有名な聖書学者であるモルガン博士にして、人間の知恵をもって「神様の愛と、また御子イエス・キリストの犠牲というものをこの聖句以上に表わすことができない」と言わせた「神様の愛」。

 使徒パウロはローマ書五章の中にそれに付随するようなかたちで、神様の愛と憐れみとを書いています。五章において、私達がその最大のテーマとして考えることは「神様との平和」ということです。



 イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることによって、私たちの良い行いとか、戒律を守るということなくして、神様の憐れみによって、イエス・キリストを見上げる信仰によって、ただの一度も罪を犯したことがないようにみなされるということなのです。

 イエス様を信じることによって、私達は「義人となる」ということではありません。「全く罪を犯さない義人となる」という意味ではないのです。

 この点を誤解しないでほしいのです。私達はイエス様を信じてからでも、間違いを犯したり、躓いたり罪を犯すことがあるでしょう。



 この聖句の意味は、たとえ私たちがつまずき、罪を犯すことがあっても、イエス様を見上げる信仰を持つなら、あたかも一度も罪を犯した事がないと同じように、法律的に、「無罪と宣言して下さる」ということなのです。

 私が全く罪を犯さない完璧な人間になるという意味ではありません。間違わないようにしていただきたいです。(続く)

◎ 暗誦聖句(表題下聖句) Ⅱペテロ三章九節下線部

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