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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六四)

 「神様との平和」それはまず自分自身の心の中に良心の呵責、咎めを持たないことがあげられています。

 イエス様を信じていながら、私たちが隠れて何か良くないことをやるとう時には、当然良心の咎めを感じます。


 私は若い頃、教会に通っていましたが、本当の意味での救いの喜びを経験できず、いわば戒律主義、律法主義の時代を経験しました。
 その時代には、一方では神様を見上げながら、そしてもう片方では自分の努力によって信仰生活を全うしなくてはいけない、と間違った考え方をしていました。罪を犯すと、何とかそれを隠そうとして、よけい良心の咎めを覚えたものでした。

 そうした生活の中にあって、とうとう日々の生活が自分の力では信仰を全う出来ない、という絶望状態に入ってしまったのでした。

 そして私の力でも私の努力でもなく、全く神様に明け渡した時、初めて心の底から魂の自由を味わうことができるようになったのです。


 皆さんもよくご存知のハドソン・テーラーという中国伝道をした宣教師も、実は同じ経験をしました。クリスチャンのカウンセリングをアメリカで教えていただいたチャールズ・ソロモン博士も、(私も後で知ったことですが)同じような経験をしたことがテキストに書いてあります。多くの人たちが経験する、一般的な「新生」であることがわかります。

 使徒パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」とガラテヤ書二章二〇節で書いています。

 「今生きているのは私自身ではなくて、イエス・キリストの命(いのち)が私という身体を通して働いて下さる。生きているのは私自身ではなくして神様の命が私を通して働かれるのだ。」という、その信仰の確信に至るまで、私は随分長い間さまよい、また心の戦いを経験したのです。


 若い皆さんも教会出席、礼拝、什一献金、祈り、そして聖書を読むこととか、いろいろな形で「自分は、こうしなければいけない、ああしなければいけない。」という義務感でやっていると当然挫折がきます。

 張り詰めた琴(こと)の糸が、ぷつんと切れるようにです。皆さんはその努力の結果、絶望すると思います。実は、本当の意味での信仰生活とはその「絶望」から始まるのです。

 「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません」(詩篇五一・一七)。神様が喜ばれるのは、私たちの「砕かれた霊魂」なのです。(続く)
◎ 暗誦聖句 ヤコブ一章二五節 (表題下聖句)

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