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習志野バプテスト教会の週報

最も大切なこと(付記)

▽「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による…」(ローマ三・二八)
   


  パウロがコリントの信者に伝えた「最も大切なこと」の第三の内容(復活)について学ぶ前に、コリント市について説明しておこう。ローマ帝国アカヤ州都(しゅうと)で、ギリシャの中で最重要都市の一つであった。土に恵まれ、園芸技術に優(すぐ)れ、ぶどうがよくとれた。人口も多く、ポセイドン(ギリシャ神話の海神)のために祭り(運動競技)が隔(かく)年(ねん)行われた。知的に敏感、物的に繁(はん)栄(えい)、道徳的に腐(ふ)敗(はい)した都市であった。どんなものでもコリントで知られれば世界に広く伝(でん)播(ぱ)された。    

 日本はコリントと似ている。豊かで、知的で、運動も盛んだ。しかし、死についてはどうしようもないのだ。ギリシャの哲学者も色々な事を学び、考えたが、死についてどうしようもなかった。故に、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(Ⅰコリント一五・三二)と快楽を求めて生きていた。パウロは、コリントの信者に、「そのような生き方をしている人を友に選んではいけない。悪い影響を受けるから」と警告した(一五・三三)。死はどうしても勝つことのできない敵であった。医学が発展した今でも、死に勝つことはできない。    

 人は死の恐怖におびえている(ヘブル二・一五)。死が恐ろしいのは、死が罪の代価であるからである。〝 死のとげは罪であり、罪の力は律法です〟 (Ⅰコリント一五・五六)。とげは死にではなく、罪にある。罪には、予期せぬ同盟者・力の源が存在する。「律法」である。律法は神様がお与えになったものであり、聖であり、正しく、良いものである(ローマ七・一二)。しかし律法には人を救う力がない。    

 「神の律法は人々に、自分が死ぬ運命にある罪人であることを悟(さと)らせるが、助けを差し出さない。罪は現実であり、そして危険である。海水浴を楽しもうと思ったら、『サメがいるので、遊泳禁止』の標(ひょう)識(しき)が目に入る。あなたの一日は台無しになる。それは標識のせいだろうか。あなたは、標識を立てた人に腹を立てるだろうか。律法は、この標識と似ている。標識は不可欠であり、私たちは感謝をする。しかし標識は、サメを追い払わないのである。」(Bible navi, 1878頁)。    

 イエス・キリストの身代わりの死によって、私が払うべき罪の代価は完(かん)済(さい)された。故に、死は裁きを受けるために神様の御前に出る瞬間ではなく、神様に感謝をお伝えするために御前にでる瞬間である。私たちはこのようなすばらしい恵みをいただいているのである。    

   

  ◎ 暗誦聖句  エペソ書一章三節
〝かれはキリストに由(よ)りて靈(れい)のもろもろの祝(しゅく)福(ふく)をもて天(てん)の處(ところ)にて我(われ)らを祝(しゅく)し、〟

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