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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六七)

 イエス様を信じようとする時、いろいろな思いが交錯します。
 「もし自分が今、イエス様を信じてクリスチャンになったら、友達関係がなくなってしまうかもしれない。ダンスも、お酒もたばこも、何もかも駄目かもしれない。」という恐怖感が襲ってきます。
 そして、「自分には、とてもついていけない。」と思ってしまうのです。しかし、その戦いがある時に、「心配はいりません。貴方の力ではなく、私が貴方と共に戦います。」と、神様は私達の心に働いて下さいます。


 「神様との平和」をいただき、どんなに難(むずか)しい時にも神様が私と一緒に立っていて下さり、私と一緒に戦って下さるという信仰の歩みの祝福。イエス様は「私の軛(くびき)は軽い」とおっしゃいました。「軛」というのは牛二頭をたてて土地を耕す時に、首につける道具です。
 軛は、力の強い方がぐんぐん土を掘り起こして進むので、力の弱い方はただくっついていけばよい、と言われます。イエス様がその軛を負って下さる故に、私は力が弱いけれど、イエス様に歩調(ほちょう)を合わせて進めばよいのです。そのことを理解するのに信仰生活の中で私は数年かかりました。


 それまでは、牧会(ぼっかい)や勉強、聖書を読む、祈る、ということを「自分の力」でやってみましたが、挫折(ざせつ)や失敗ばかりで、とても信仰生活を全うできないと思いました。
 そういう肩肘を張った信仰生活から、裃(かみしも)を脱ぐことがポイントでした。ちょうど家に帰って洋服を脱いで、入浴して「あーあ、さっぱりした。」というのと同じです。神様の御前に「自分」という殻(から)を捨てて、素直に神様に従っていけるようになりました。


 神様は私たちの外側も内側もすべてご存知のお方です。人間には他人の外側しかわからず、心の中にどういう汚い思いが渦巻いているかはわかりません。「すると、主は彼に言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。』」(ルカ一一・三九)。


 旧約聖書の第一サムエル一六・七には「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」と書かれています。人は外の形を見、神様は人の内側をご覧になります。私達は、イエス様にいつも自分自身を素直にさらけ出し、飾ることは必要ありません。自分のあるがままの姿で神様に従う時に、本当の意味で、良心の咎めから解放され、また神様が私の罪汚れを赦して下さるという、その事実に根ざした立場の変化、神様の子供とされるという、「立場の変化」を与えられるのです。


 では、信仰は事実という「理性」であって感情は全くないのでしょうか。ある人達は非常に熱心ですが、「その熱心さが知識に裏づけされていない。」とパウロは指摘しました。クリスチャンは「感情」をいつも殺して抑圧しなければいけないのでしょうか。そうではありません。(続く)

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