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習志野バプテスト教会の週報

◆愛の神を見つめる(11)

   ▽「キリストも
    一度罪のために
    死なれました。
    正しい方が
    悪い人々の
    身代わりと
    なったのです。」
   (Ⅰペテロ三・一八)
   


  "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)ジム・バーグ博士著からの翻訳    

 数年前、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」(ガラテヤ六・一四)というパウロの十字架についての言葉は私を打ちのめした。    

 その御言葉を繰り返し黙想するうちに、私にとっての十字架とパウロにとっての十字架は随分(ずいぶん)と違うと思った。パウロの人生の中心はキリストの十字架であった。私はまだ十字架について学ぶべきことが沢山あると感じたので、ある週末にイザヤ五三章を学び、黙想しようと決めた。イエス・キリストの十字架のご栄光を私にお示しくださいと神様に祈った。    

 ある土曜の朝、すべての予定をキャンセルして、イザヤ五三章を読み、註解書も数冊読んだ。そしてしばらくの時間、私はキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。…」(エペソ三・一八~一九)と祈っていた。    

 午後も半分くらい過ぎた頃、神様の御霊は私の霊の目を広く開いて下さり、神様の私に対する大きな愛をこれまで以上にお示しくださった。これまでも神様が私のために十字架の上で成し遂(と)げてくださったことのすばらしさを認め感謝していたが、その日の午後、神様は私がこれまで気づいていなかったご自身の大きな愛を明らかにしてくださった。    

 イザヤ五三章五節の「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕(くだ)かれた。彼への懲(こ)らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」という御言葉がより個人的に、力強く、そして新しく迫(せま)ってきた。イエス・キリストの十字架上の御業が「私のため」であったという理解は、言葉に表せないほど大きなことであった。    

 こんな罪深い私に対してこれほどまでに大きな愛をお示し下さった神様に私ができることは、涙ながらに感謝の思いを伝えるだけであった。カルバリで示された神様の真実の愛を考えると、今も涙があふれてくる。このレッスンを私は忘れないだろう。そして忘れたくない。  (続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句 マタイ伝一一章三〇節
〝わが軛(くびき)は易(やす)く、わが荷(に)は輕(かろ)ければなり〝

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