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習志野バプテスト教会の週報

◆神様のみ言葉を黙想しよう

▽「まことに、その人は
  主のおしえを喜びとし、
  昼も夜も
  そのおしえを
  口ずさむ。」
  (詩篇一・二)
   


  〝ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。〟 ヤコブ書一章二五節 首記の御言葉から、黙想には心の集中が必要であることを先ず教えられる。ヤコブは、「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人」と書いている。    

「一心に見つめる」というギリシャ語(パラクプト)は、何かにもたれかかる、そして一つのものを食い入るように見つめる、という意味を持つ。コンタクトレンズを絨毯(じゅうたん)の上に落として探すときの様子が、このギリシャ語の意味である。コンタクトレンズを踏(ふ)んでしまわないように、他の人がその周りに来ないようにし、両手両足を床につけて、コンタクトレンズを見つけようとする。その人は、コンタクトレンズがないか、カーペットを「食い入るように見つめている」。このことから分かるように、黙想には、熱心さと集中力とをもって探求することが含まれる。    

 黙想は、「ディボーションをしなくては」と言って、御言葉を急いで読むことではない。神様と神様のご計画についての知識を探求するといった目的をもって聖書を開き、読むことが黙想である。神様がお語りくださることを伺うといった明確な目的をもって聖書を読むとき、私たちは神様の御言葉を口ずさみ、黙想することができる(ヨシュア一・八)。神様と共に歩くことの「最もすばらしい目標」は、キリストのお姿に似る者となることであり、ヤコブの言葉を借りるなら「事を実行する人」になることだ(ヤコブ一・二五)。そのための「最も良い方法」は、神様と神様のご計画を理解するという明確な目標をもって、聖書を読み、調べ、学ぶことである。    

 黙想は、継続をも要求する。ヤコブは、「…一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にならない…」(一・二五)と書いている。注意深く見つめるときに、どれくらい継続すればよいのだろう。ヤコブは、み言葉が教えている真理とそれを私の生活に適応する方法とを忘れることができなくなるまで、と教える。み言葉の真理が心に焼き付けられるまでには、一つの聖句を毎日、何週間も黙想しなければならない時がある。    

 私たちが、繰り返して御言葉を黙想し、真理を知ろうと熟考した後で、神様は私たちの霊の目を開いてくださり、聖霊の助けによって、真理を悟り理解出来るようにしてくださる。神様の御言葉を黙想しよう。    

 ジム・バーグ博士の著書 "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)の一二章の一部を翻訳したものです。    

   

  ◎ 暗誦聖句 (文語訳) イザヤ書六章八節後半
〝 われ此(ここ)にあり我(われ)をつかはしたまへ 〟

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