FC2ブログ

習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三六)

 「天にいらっしゃるお父様」という時、私たちをお造り下さった真(まこと)の神様を意味します。真の神様だけが本当の意味での天にいらっしゃる神様なのです。そして、父なる神様と私たちとは、親しい交わり、個人的な霊的交わりをするように造られているのです。

 イギリスでは結婚して三二年間、一言も口を利かない夫婦がいたと『ギネス・ブック』に出ているそうです。結婚してまもなく何か言い争ったらしく、三二年間も同じ家で寝泊りして、同じ物を食べながら一言も口を利かないとは、大変辛い生活だったことでしょう。

 神様の家族の一員にされた私たちは、神様と親しい交わりを与えられます。私たちにとって、神様とお話をするということが大変大事なことです。また、私たちはイエス様を通して真の神様を「私たちのお父様」と呼ぶことができるようにされたのです。

 「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」            ローマ四章七、八節

 法律を破り、神様の戒めを破った「不法者」である私たちが、イエス様の十字架上で流された血によって罪が覆われ、一回も罪を犯したことがないように認められます。神様が私たちをご覧になる時、イエス様の故に、無垢で、罪や汚れのない子供と同じように認められ、受け入れられます。何と幸いなことでしょうか。

 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」           ローマ五章一、二節

 結婚している皆さんは今、奥さん、あるいはご主人と仲が良いでしょうか。「いやあ、どうもね。」「まあまあ。」これではちょっと困ります。それでは、夫婦喧嘩をしたことはあるでしょうか。「ない。」と言ったらウソになるでしょう。牧師の家庭でも、物を投げたりチャンチャンバラバラはやらなかったけれども、結婚当初は夫婦喧嘩がありました。

 「自分たちは結婚したんだなあ。よかったなあ。」と思えたのは一〇年たってからで、それまでは、「鶍(いすか)の嘴(はし)」の食い違いみたいに、いつも食い違ってばかりでした。(鶍(いすか)という鳥の嘴(くちばし)は上下に交叉(こうさ)していて、食い違っています。物事がくいちがって、思うようにならないことの例えです。)お互いの気持が相通じるまでには一〇年かかりました。同じ家に住んでいて、心が通じ合わないというのは大変辛いことです。(つづく)

PageTop

ローマ人への手紙(三五)

 バプテストの有名な聖書学者だったジョン・ブローダス師は、「伝道集会を持つ時には、必ず『神様とは、いかなるお方か』ということを一週間でも二週間でも徹底的に示すように」と言ったとのことです。つまり、「God」とか「天帝」としても、「創造主」については全然、人間にはわからないということです。

 英語では、人間が作った通常の神々は小さい文字で「gods」と書き、聖書に書かれた「唯一絶対の神様」のことは大文字でGと書き、それからodと書きます。こういう風に区別はしていますが、それが文字でわかっても本当の意味で聖書の全能の神様のことは人間には理解できないのです。

 第一コリント二章一四節で「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」と聖書は書いています。私たちが聖書の御言葉を素直に受け止め、神様から霊的な導きをいただかなければいけない理由です。

 キリストの十字架を仰ぎ見ることによって、初めて私たちは「新しく生まれる」、「新生(しんせい)」という経験をし、そして神様の聖霊の内住をいただきます。つまり、神様のことは聖霊の助けをいただかなければ人間には絶対に理解不可能なのです。漢字の問題、言葉の問題だけではなく、「霊」の問題なのです。

 人間は{Spirit (霊)/Soul(精神)/Body(肉体)}の三つの領域から成り立っています。

 日本語では「心」という表現を使って、心と霊をごちゃごちゃにして使っています。「心」というのは、人間の精神の部分で、いわゆる「Soul」の部分です。しかし、聖書で取り扱うのはsoulという「心の部分」ではなくて、人間を生かす目に見えない「霊の部分」で、しかもこの「霊」は永遠に生き続けます。神様のさばきの中に生き続けるか、それとも永遠に神様と共に生きるか、という領域であるわけです。

 肉体bodyは朽ち果てます。しかし、霊の部分はいつまでも生き続けていき、それは、私たち人間そのものの人格です。神様はユダヤ人だけの神ではなく、私たち異邦人、日本人にせよ、アメリカ人にせよ、あるいはガーナ人であるにせよ、「すべての人の神」でいらっしゃると書いてあります。

 私は若い頃、この聖句を見つけて大変喜びました。それまで「ユダヤ人の神」と思っていたその神様は、ユダヤ人だけの神様ではなくて、誰でも神様にひざをかがめ神様を呼び求めるならば、「私の神様」でいらっしゃるのだということなのです。あなたは、それを実感なさっていますか。 (つづく)

PageTop

ローマ人への手紙(三四)

 『イエスの愛は海のごと いかなる罪も のみて汝を 清くなし、受け入れたもう。来よ。来よ。疲れたる者。 イェスは愛の手をば伸ぶ。疾く、イェスに来よ。』              (総合聖歌四〇九番三節)

 文語体で書かれているので分かりにくいかも知れませんが、「イエス様の愛は海のように、どのような罪も飲み干して下さり、あなたを清め、受け入れて下さる。来なさい。来なさい。疲れている者よ。イエス様は愛の御手をのべて、あなたを迎えます。早くイエス様のもとにいらっしゃい」という意味の賛美です。

 私たちは、これまで、特に初心者向けの「聖書の中心的な救い」についての学びをしてきました。聖書の骨格的な勉強でもあります。ある人は、指輪を手にとって、指輪の上の宝石、それがローマ人への手紙であると表現しました。聖書の中でイエス・キリストの救いそのものを明確に述べ伝える使徒(しと)パウロの書いた書簡です。

 「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。」ローマ三・二九

 「 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。」ローマ三・三〇

 私たちは、聖書のことをよく知らない時に、どうしてもキリスト教というのは今日のイスラエル、ユダヤ人の宗教だと考えてしまいがちです。この日本において、聖書が翻訳されたときに、日本人が使っていた「神」という言葉をこのように聖書に使ったのは間違いであった、という学者やクリスチャンが多くいます。

 しかし、聖書を抜きにして、人間には創造主である神様のことを表現できません。昔、日本人は国を治(おさ)める人々を「上」という字を書いて、それに敬語の「お」をつけて「おかみ」と言ったとか。「お上の言うことだからしょうがない、お上の言うことだったら間違いないだろう。」ということで、いつも上にたつ者を「おかみ」と称したそうです。

 そして、聖書を翻訳する時に、「旧約の天帝」「天の帝」という言葉を使うか、それとも「示偏(しめすへん)(=礻(しめす))に申す(=電(いなずま))」と書いて「神」をあらわすか、論じられたとのことです。

 稲光り(=稲妻、電(いなずま))というのは不思議な力を持つと思われていたので、「神」という言葉を使ったと言われています。聖書を日本で子供たちに教える時、「God」の翻訳に「神」という言葉を使うな、という人達が現在もいるようです。

 いずれにせよ、世界中どこに行っても、「神様」という概念は一つの言葉であらわすことは不可能に近いことなのです。 (つづく)

PageTop

ローマ人への手紙(三三)

 「贖(あがな)い」、「救い」とは、カバーすることです。「カペナウム」は、その言葉のなごり(・・・)です。ナホムという人の所へ無実の罪で逃げ込む人は、神様がその人を覆(おお)ってくださる、カバーしてくださる、ということです。「カバー・ナホム」がカペナウムという地名になりました。

 旧約時代、仮にあなたが誤って人を殺してしまったり、正当防衛であったにもかかわらず、あなたが捕らわれようとするならば、「逃(のが)れの町」に行けばよかったのです。大祭司(だいさいし)が替(か)わる(死ぬ)までそこに滞在し、あとは無罪放免となったのです。

 過越しの祭(まつり)の時には、イスラエルの人たちは子羊の血をとって、ドア(出入り口)のかもい(・・・)に塗りました。その血塗られたドアを見る時に、神様の御使いたちがその家を裁かず通り過ぎて行った「過越しの祭」と同じなのです。イエス・キリストの十字架を自分のためであったと信じる人は、神様の裁きが来る時に過ぎ越していただける、そして、神様は「わが愛する子よ。」と呼んでくださるのです。

 こんな素晴らしい経験を私たちはお金で買うことはできません。ただ、神様の御前にひれ伏し、「罪深い私を救ってください。罪を赦してください。」とお願いするだけで、生涯あなたの宝となっていくのです。

 ローマ三章二三節に、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と記されています。ここには、日本人もロシア人もアメリカ人もイギリス人も全く区別がありません。すべての人、一人残らず、人間は誰もが神様の御前に不義を働き、罪を犯してきました。そのために、神様の御栄光、すなわち聖さ、正しさ、正義、完全、あるいは慈愛深さ、愛というものをまったく持ち合わせていません。罪の中にある人間は自己中心的であり、罪に汚れ、頭の中で考えることすべて、罪汚れで満ち満ちています。

 私が伝道者になったばかりの時、同僚の牧師の子が幼稚園でお買い物ごっこに使うおもちゃのお金を持ってきてお兄ちゃんに言いました。「角のタバコ屋さんのおばあちゃん、目が悪いでしょう。今度このお金を持っていって、だまそうよ」。その牧師はびっくりしました。わずか四歳の子供が、おもちゃのお金で目の悪い人を騙そうと発想するとは・・・。

 その子はキリスト教の幼稚園に行っていたのです。まさに人間は罪の子である、ということを目のあたりにしました。教育で人間を変えることはできないことを心にとめましょう。警察官が酒に酔って自動車の事故をおこすことも同類でしょうね。「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ三・二四)。    (つづく)

PageTop

ローマ人への手紙(三二)

 私たちは、何年、何十年と信仰生活を続けても、自分自身で正しい、義となることはできません。神様に受け入れられる義となることはできないのです。ここが間違いやすいところです。「私は信仰歴四、五〇年ですから救われた時より、はるかに義が私のものになりました。」と言うのはとんでもないことで、一生かかっても自分自身では義を得られません。

 あくまでも、それはイエス様から頂くところの義であって、自分の性質の変化や努力の結果ではないのです。「その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(Ⅱぺテロ一・四)。

 信仰生活ですばらしいことは、日、年を追って、イエス様のご性質を頂き、毎日、心の中に霊的な変化が与えられるということです。皆さんが、お風呂に入って体をこすると出る垢(あか)は死んだ細胞です。人間の体の細胞は毎日、新陳代謝(しんちんたいしゃ)をしています。古くなって死んだ細胞が垢となって落ちていくのです。それ以上に私たちの心の中、神様を礼拝するために与えられた霊は、日々新しく変えられていくのです。また、肉体が食べ物を必要とするように、霊の人格は神様のお言葉である聖書、霊のまことの乳を慕い求めます。

 聖書を読む度に、私達は自分自身が神様に近づけられ、毎日汚(けが)れが洗い流されていきます。そして、新しく変えられていきます。イエス様を信じる人は、一〇年前、昨年、あるいは今年の初めとは決して同じではないのです。新陳代謝をし、絶えず成長していきます。

 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」       Ⅱコリント五章二一節

 Ⅱコリント五・二一を見ると、神様は「罪を知らない方」、すなわち、イエス・キリストを私たちの代わりに罪として下さり、私が抱えている罪(つみ)、汚(けが)れをイエス様が身代わりとなって受けて下さった、とあります。そして、イエス・キリストの中にある私を神様がご覧になる時、「私はあなたを赦(ゆる)す、あなたが全く汚れがないと同じような状態として認める。」と言ってくださり、無罪放免とされます。

 もう過去の罪に怯(おび)えて、誰かに後ろ指さされるのをびくびくする必要はなくなったのです。子供時代の友達の誰かが、「お前の悪いことを全部知っているぞ。」と言っても大丈夫です。イエス様を信じる時に、神様によって罪、汚れは全部洗い流されるからです。

イエス様は、私の罪の数々を数えて、「お前はこういう悪い人間だ。」とはおっしゃいません。イエス様を心の中にお迎えし、イエス様の十字架の血潮(ちしお)によってすっぽりと、完全にカバーされ、覆(おお)い隠(かく)される、これが贖(あがな)いの教理(きょうり)なのです。(つづく)

PageTop