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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六三)

 私達は、この地上に生きている間、生涯様々な誘惑に出会い、あるいは、日々の生活の中で戦いを経験しています。


 自分では正しいと思っていても、神様が御覧になる時に良くないことであるかもしれません。

 私達は信仰生活を歩んでいくうちに段々、自分の手で神様に喜ばれる「義」を積んでいこうとしてしまいます。そういう落とし穴があるのですね。


 「偉大な魂は、単純な魂である。」と言う伝道者がいました。

 偉大な人物、偉大な信仰の人というのは、非常に単純な信仰の持ち主であると言われています。そのことを覚えていただければと思います。

 「単純な信仰」とは、イエス様が私の罪を背負って、身代わりとして、十字架について死んで下さったことを信じることです。


 モーセは荒野で蛇を挙げました(ヨハネ三章一四~一五節)。

 毒蛇に噛まれた人々は毒蛇の姿をした青銅の蛇を見つめた時、瞬間的に癒されました。同じように私達はイエス様の十字架を仰ぎ見る時に罪を赦されるのです。


 「じゃあ、これから、いくら罪を犯しても構わないな。」と言って、またこの世に出て行って、面白半分にあるいは自分のしたい放題に罪を重ねることは、愚かな事です。本当の意味で「救いのない人」と言わなくてはなりません。


 「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか」(ローマ六・一~二)。


 これはヨハネの書いた「ヨハネの手紙第一」を見ていくとわかります。

 イエス様を信じる人は、毎日、毎日、現在進行形でイエス様を信じ、そして神様に従っていこうとします。

 ただ一度だけ信じて、「あとはもうおしまい。」ということではありません。

 私達はイエス様の十字架を仰ぎ望むことによって、神様との平和を持つようにされるのです。


 ローマ一章においては、神の怒りが異邦人(いほうじん)にも及び、また二章においてはユダヤ人もまた神の怒りのもとに置かれているということが書かれています。

 しかし、五章において使徒パウロは一転して、ユダヤ人もギリシャ人も全(すべ)ての人間はイエス・キリストを通して神との平和をいただくことが出来ると書きました。


「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ五・一)。(続く)

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ローマ人への手紙(六二)

 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」 ローマ人への手紙五章一節

 世界中いつの時代においても、日曜学校の生徒をはじめ、多くの人が一度は耳にしたことがある聖書の有名な聖句があります。

 それは、ヨハネの福音書三章一六節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」



 この御言葉は、多くの伝道者がくり返し、くり返し説教してきましたし、また有名な伝道者はこの聖句一つで一年間、礼拝のメッセージをしたという逸話も残っています。

 どんなに深く掘り下げようとしても、このヨハネ三章一六節を私達は完全に解き明かすことはできないと言われています。


 しばしば引用されているキャンベル・モルガンという聖書学者は「私にとってこのヨハネ三章一六節は、説教することが大変難しい聖句です。私はこの聖句を通して皆さんにお話することは不可能です。」と言いました。この聖句を読むならば、それに付け加えることはできませんし、差し引くこともできません。

 あの有名な聖書学者であるモルガン博士にして、人間の知恵をもって「神様の愛と、また御子イエス・キリストの犠牲というものをこの聖句以上に表わすことができない」と言わせた「神様の愛」。

 使徒パウロはローマ書五章の中にそれに付随するようなかたちで、神様の愛と憐れみとを書いています。五章において、私達がその最大のテーマとして考えることは「神様との平和」ということです。



 イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることによって、私たちの良い行いとか、戒律を守るということなくして、神様の憐れみによって、イエス・キリストを見上げる信仰によって、ただの一度も罪を犯したことがないようにみなされるということなのです。

 イエス様を信じることによって、私達は「義人となる」ということではありません。「全く罪を犯さない義人となる」という意味ではないのです。

 この点を誤解しないでほしいのです。私達はイエス様を信じてからでも、間違いを犯したり、躓いたり罪を犯すことがあるでしょう。



 この聖句の意味は、たとえ私たちがつまずき、罪を犯すことがあっても、イエス様を見上げる信仰を持つなら、あたかも一度も罪を犯した事がないと同じように、法律的に、「無罪と宣言して下さる」ということなのです。

 私が全く罪を犯さない完璧な人間になるという意味ではありません。間違わないようにしていただきたいです。(続く)

◎ 暗誦聖句(表題下聖句) Ⅱペテロ三章九節下線部

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ローマ人への手紙(六一)

 仮に、皆さんが何か事故を起こし、他人の物を壊してしまったら弁償すれば、相手はそれで満足するでしょうか。

 仮に私が知人に「ちょっと車を貸して下さいね。」と言って、ちょっと塀を擦っちゃったとか、何かあった時、「ごめんなさい、こんなにしちゃって。つまらない物ですが。」と風呂敷を出し、中に入ったお詫びの品を渡します。

 そうすると、相手はそれ以上、文句を言わないでしょう。これはおもしろい習慣だと思います。「何だ、こんな物、持ってきて。」と目の前でつき返すかもしれません。「まあ、そんな気を使わなくていいんですよ。」と言って許してくれることが多いのでは、ありませんか。

 私たちは何か悪い事をしたならば、その代価を払わなければいけません。払って元どおりになるかと言えば、そうではないでしょう。相手に迷惑をかけ、相手の物を壊したということで、宥(なだ)めの供え物が必要です。

 「ごめんなさい。」と、余分な物を出さなくてはならないことがあります。

 イエス様は犠牲となり、供え物となり、さらに私たちを買い戻してくださったのです(ヘブル九・一二、二六、ローマ三・二三、二四)。


 テレビの報道で見たことです。若い男女が崖っぷちにいました。
 女性の足が滑って谷の方に落ちそうになった時、男性は助けようと懸命でしたが、どうしても彼女を引き上げることができません。

 そこへ山岳部で活躍していた二〇代半ばの男性が飛んで来て、彼女を救い上げたのです。

 しかし、その時に助けた本人は足を滑らして谷底へ落っこちて、川で溺れて亡くなったのです。

 一つの美談かもしれません。亡くなった青年の親元にその男性から、一〇万円が送られてきました。

 女性は助かってすぐ、彼の姿が見えなくなってしまったので、誰だか分かりませんでした。男性は「これから先は弁護士と話し合って下さい。私に一切、連絡しないで下さい。」ということでした。人ごとながら、私は「良かった。」とは思えませんでした。

 仲のよい友達か恋人同士だったかはわかりませんが、その女性の命を助けて犠牲になった男性が亡くなったのにです。その行為に対して一〇万円ポーンと送って、それ以上私と関わらないで下さいと言ったのです。

 恐ろしい時代になったな、と思いました。同じことを私たちはやっていないでしょうか。

 イエス・キリストは、私の罪のために死んで下さったのです。それにも関わらず、私たちは神様に対して感謝の思いすら表そうとしないのです。

 「生かされている」その感謝の思いを、神様への奉仕、また信仰を働かせることによって、神様の御栄えを表す生き方をしないならばこの青年たち以上に私たちは恩知らずで、罪深い状態ではないでしょうか。(続く)

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ローマ人への手紙(六〇)

 イエス様は私たちにとって「過ぎ越しの小羊」です。

 「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」(Ⅰコリント五・七)。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント五・二一)。

 イエス・キリストは、本来私が死ぬべき場所において身代りとなって死んで下さいました。仮にあなたが道を歩いていてトラックにはねられそうになった時、脇から男の人が飛び出して来て、あなたを突き飛ばすようにしてトラックの暴走から守ってくれたとします。あなたはどうするでしょうか。

 「私のきれいな洋服を汚しちゃって。こんなとこ、すりむいちゃって。」と言って怒るでしょうか。そんなことはしません。「私の命の恩人です。」と言って感謝するでしょう。

 イエス様は私の身代わりとして犠牲となり、死んで下さいました。
 「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ三・二四)。


【贖罪(あがない)】

 何のよい行いもなく、功績もない状態にあって神様の恵みによってキリスト・イエスの贖いにより、神の前に義とされることです。

【贖(あがな)い】

 それは「買い戻す」という意味です。私たちは自分の力で生きるとか、神様を信じないで生きられると思いがちですが、実態はあなたの意志が言っているのではなく、この世を支配している悪魔があなたの心に働いて、あなたを罪の奴隷として自由奔放の生活、快楽を求めさせているのです。

 「神様を知らない」という人は、もっとも惨めな存在です。

 なぜならば、心の自由がなく、良いことをしようとしても良いことができません。いつも自分の欲望、自分のわがままな願いの奴隷となっているからです。そんな状態のあなたを、イエス様は神の国へ迎え入れるために十字架上で血を流して下さったのです。

 イエス・キリストの汚れのない血は、父なる神様の御前に注がれ、私たちは罪の汚れから解放されるのです。


「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです」(ローマ三・二五)。

 「ローマ人への手紙」における大きな三つの言葉を心にとどめようではありませんか。

  【犠牲(ぎせい)】
  【贖(あがな)い】
  【供(そな)え物(もの)】

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ローマ人への手紙(五九)

 「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ五章八節


 私たちは力のない者、弱い者で、希望のない者であり、絶望の状態にありました。「私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています」(詩篇六九・二)。


「昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ」(詩篇三二・四)。

こんな状態にあった私たちです。そして私がなお罪人で、「イエス様なんか信じない。聖書も読まない。何もしない。」という不信仰な状態の時に「キリストは罪人である私のためにも死んで下さった」のです。

この場所を読むと、私は「本当に自分は神様の一方的な憐みによって生かされているんだなあ。」とつくづく思い、「生涯、主にお仕えしたい(献身(けんしん))、証(あか)ししたい。」と思うのです。

 小学六年生の夏、川の中で溺れかけました。太平洋戦争が終わる五ヶ月前の三月九日、東京大空襲があり、焼夷弾が落ち、我が家が焼ける寸前、火の中で守られました。

米飛行機の機関銃掃射の中を逃げ惑った時も助かりました。アメリカで伝道中に黒人に殺されそうになった時や、船が大しけで揺れて沈みそうになった時も、様々な苦しみの中にあって神様はいつも守って下さいました。

一九八八年、両目の出血で二年以内に失明すると言われました。アメリカで手術の道が開かれましたが、五年もてば良いと言われました。今も目は守られています。その二年後、前立腺ガンで入院しました。

手術無しで、祈りで癒やされました。神様は信じる者を決してお見捨てにならない、ということを実体験として味わってきているのです。

 私たちが神様を愛したから神様が救って下さったのではないのです。「キリスト教は大嫌いだ。」と言っていた私が神様によって救われたのです。まさに神様の一方的な愛と憐れみのゆえです。

もちろん、今でも私は弱い人間で、罪を犯して負けることがあります。でも、負けても、つまづいても、私には帰る場所があり、受け入れて下さる神様がおられるのです。

 空を飛ぶ鳥は夕暮れが迫ってくると、ねぐらに向かって帰ってゆきます。私たちは自分の休む場所、霊魂の憩いの場を、イエス・キリストの中に見出すことができるのですから、何と幸せなことでしょう。

 イエス・キリストは私たちの身代わりとなって下さったのです。旧約聖書の出エジプト記を読みますと、エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの人々が、神様の裁きの御使いが来る時に家の入り口のかもいの所に血を塗りました(出エジプト記一二・七、一三)。

そして裁きの御使いたちは、かもいに血が塗ってある家は通り過ぎ、神の裁きが過ぎ越したと記録されています。これが「過ぎ越しの祭り」の起こりです。(続く)

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