fc2ブログ

習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(一二〇) 


 二〇〇一年九月にアメリカのニューヨークでテロによる大惨事がありました。そのあとニューヨーク周辺の教会が大きな場所を借りて伝道集会を開いた時に、これまで見向きもしなかった一三〇〇人を超える多くの人々が集まってきて、そのうちの何人かがイエス様を信じる決心をしたと言います。


 一五年程前のことですが、フィリピンのレイテ島に大洪水が起こりました。当時、私達が交わりをもっていた教会がオルモックという地域にあり、オルモックにはその頃、日本の「味の素」の工場がありました。そのオルモックに台風が押し寄せ、大津波が町を襲ったのです。

大きな坂に面し山に続く中間地点にある教会ですが、その日は海から恐ろしい津波が吹き上げ、さらに竜巻が起こって海の水を市内にドサッと落としました。悪いことに、島の山は、日本に材木を輸出していたためハゲ山になっていたため、三〇〇〇人を超える人が一時に水にのまれて死んだのです。私はこの教会にお見舞いと薬などを届けに行ったのですが、その悲惨な大洪水のあと二〇日位たった時でも海にはまだ異臭がただよい、全部の犠牲者を収容しきれないという状態にありました。


 それまで五〇人位しか集まっていなかったオルモックの教会に、毎週日曜日には五〇〇名を超える人々が集まったとか。しかし、それはほんの二~三ヶ月しか続かず、また以前と同じ五〇数名という人数に減ってしまったとのことです。第一の理由は、多くのカトリック寺院が礼拝に来る人たちにお米や衣類を配ったので、それを目当てに行ってしまったらしいのです。


 人間は『喉もと過ぎれば熱さを忘れる』のたとえ(・・・)の通り、災害が起こると、「神様、仏様、何でもいいから助けて下さい。」と叫びます。けれども、本当の信仰とは、皆さんが礼拝を守っているように、日ごろ何の大きな災害もない中にあってなお、心を神様にささげて礼拝を続ける、これこそが本当の意味での信仰の姿ではないでしょうか。大きな災害の時だけ「神様、助けて。」と呼び求めるのは人間の常であるかもしれません。しかし、それはなかなか長続きしません。


 ですから、被災者が気の毒だという一時的な同情、あるいは寄付金で終えてはいけないのではないでしょうか。まさに被災地の人々だけでなく人類全体が、神様の前に膝をかがめ、本当に悔い改めて神様の祝福を取り戻すことが出来るように祈るべきであろうと思います。                  (続く)

PageTop

ローマ人への手紙(一一九)

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ一・九)との確信が与えられてから、誘惑に直面する時、誘惑に負ける時、私はイエス様の以下の御言葉を思い出します。

イエス様は、「サタンよ、退け。私から手を離せ。」と命令しなさいと、私たちにお命じになりました。それは、イエス様だけではなく、イエス様を信じる凡ての人が誘惑を遠ざけることができるのです。そして、悪魔の誘惑に打ち勝つ時に、私たちは新しい力を与えられ、強くされてゆきます。そして、神様とともに歩むことの喜び、力を経験するようになり、また誘惑がきても、恐れはなくなってゆきます。


 『来なば来たれ、試みよ』(聖歌総合版四八八番二節)という賛美があります。どんな嵐がくるとしても、私が戦うのではなくて、イエス様が私と共に戦ってくださるのです。「わたしのくびき(・・・)は負いやすく」(マタイ一一章三〇節)とイエス様はおっしゃいました。イエス様が私のくびきを共に負ってくださるから、私はいつまでも悪魔の手先として動くことはなくなりました。なぜならば、私は律法に対して死に、今生きている私は、イエス・キリストの恵みによって生かされているからです。


 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ二章二〇節)という確信が、皆さんを勝利へと導いていきます。


 ローマ書七章は、たいへん暗い谷底を通っていきますが、七章の終りに注目してください。パウロは一八節から二四節で何と書いているか読んで下さい。


 「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ七章二四節)。
 二四節で文章が終わっていれば、『聖書』は存在しなかったでしょう。なぜ私たちが、パウロの経験を考えるかというと、実は、前半の七節から一三節においては原語は過去形で書かれています。一四節から二五節の原語は現在形で書かれています。現在形というのは、彼が今生きて、経験しているということなのです。


 私は若い時から数え切れないほど、ローマ七章二四節を口にしてきました。しかし、イエス・キリストの十字架につけられ私は死んだと、その信仰の核心に触れたとき、ローマ八章一節が大変大きな力となったのです。

 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
                     (続く)

PageTop

ローマ人への手紙(一一八)

 神様に近づけば近づくほど、自分の罪深さがわかってくるのです。「神様、私を清めてください。」と願って神様の方を向いて生活していくと、小さな罪も目立ってきます。パウロは「ああ、我、悩めるものなるかな。」と七章で言っています。七章の経験は、多くの学者がこれまで論争してきた所です。


 初代の教父たちは「この経験は、救われていない人たちの経験だ。」と言いました。五百年~千五百年の中世の教父たちは「これは、救われた人たちの経験である。」と言いました。私は、「これは使徒パウロ自身の救われてからの経験であったろう。」と考えます。なぜなら、それは、パウロだけでなく、私だけでなく、多くの人が経験してきたことだからです。イエス様に近づいていこうと思えば思うほど、失敗が目立ってくるのです。そのことでくよくよ(・・・・)していると、なおさら「自分は厳しい生活を続けていくことはできない。」と戒律の虜となってしまうのです。


 「私」というものがまだ生きていて、自分の努力によって清くされよう、喜ばれよう、とするあまり、禁欲主義、戒律主義、律法主義になって、なおさら自分の罪が目立ち、「自分はもうだめだ。」と思うようになるのです。


 パウロはここで、最初に戻って、「あなたは死になさい。」と言うのです。「あなたは生きるために死ななければならない。あなたの古い性質が十字架につけられ、葬られ、神様から新しい命を頂かなければ、正しい信仰生活をおくることはできない。でなければ、いつまでも律法があなたを追いかけてきて、あなたを裁いていきますよ。」と言っているのです。そんな生活はイヤですね!


 私たちの自我とプライドが取り去られて、自分の人生の中心にイエス様が来てくださる。そのイエス様と私が一体となることによって初めて、律法から解放され、失敗してもイエス様に謝ることができるようになり、すばらしい約束が与えられているのです。
 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」Ⅰヨハネ一章九節


 私は皆さまに、イエス様と一体とされた自由、律法から解き放たれること、そしてイエス様にある喜び、力を味わっていただきたいです!私は自分自身の過去の経験で長い間苦しんでいましたから、よくわかります。今でも失敗をすることがあります。けれども、その失敗が、私をぺ(・)しゃんこ(・・・・)にすることはなくなりました。なぜならば、イエス様はそれを御存知だからです。
                     (続く)

PageTop

ローマ人への手紙(一一七)

 「私は、イエス様を信じてからも、罪に負けてしまいます。」ということを時に聞き、また自分自身で経験します。ローマ七章のテーマです。イエス様を信じてからもなお、私たちはつまずいてしまうことがあるのです。「では、私は何のために信仰を持ったのか。」という疑問がでてくるかもしれません。それは、私の古い性質がまだ、イエス様と共に十字架につけられて死んでいないからです。


 今から四〇年以上前ですが、アメリカで日曜学校の生徒に罪のことを話す時に、よく使われた例話がありました。「インディアンの酋長がいました。彼は、しょっちゅうお酒を飲んであばれ、人をいじめました。イエス様を信じてから、彼の生活は変わっていきました。このインディアンの酋長は宣教師にこう言いました。『先生、俺の心の中には、白い犬と黒い犬がいて、いつも喧嘩をするんだ。』」と言ったというのです。


 これを聞いて私は「上手いことを言うな」と思いました。イエス様を信じてからも、私の心の中で、白い犬(新しい性質)と、黒い犬(罪の性質)が喧嘩をしているのです。白い犬が勝つ時、私は嬉しいけれど、黒い犬が勝つとぺしゃんこです。私たちの日々の生活を端的に表す例えです。こういうたとえ話(・・・・)が私たちの心に入っているので、悪いことをすると、「黒い犬が勝ってしまった」と落胆し、そしてイエス様に謝り続けるという、嬉しくない信仰生活になってしまうのです。


 アメリカでは一時、「勝利に満ちたクリスチャン生活」という言葉がよく言われました。しかし、実際にこういったものがあるのでしょうか。


 仮に、真っ白な生地があったとします。結婚式の純白のドレスでもいいですが、そこにホンの小さなしみ(・・)がつきました。人前では、あの人は立派なクリスチャンだと思われるでしょう。しかし、じーっとそばで見てみると、黒いしみがついていて、隠れた罪があるのです。ところが、黒っぽい生地だと、ちょっとしたごみがついても目立ちません。この世にどっぷり浸かった世的な生活をしているクリスチャンは、多少、よごれた生活があっても目立たないのですが、それは神様の目には汚れた存在です。


 罪を赦されてイエス様と共に歩もうとすると、白い生地についた小さな汚れが目立つように、自分の罪深さが目立ってくると、パウロは書いているのです。
                     (続く)

PageTop

ローマ人への手紙(一一六


 ローマ書七章一~四節をお読み下さい。七章は大変ややこしく、何がなんだか分らないとあせり(・・・)を覚えるかもしれません。しかし、いくつかのポイントをつかんでいただきたいのです。ここでパウロは、難しいこの教えを説くために、結婚の例をあげているのです。


 婚姻届を出し、正式に結婚をした夫婦は一体となるとイエス様は仰せになりました。男女が一つの体になって合わせられるのです。故に、片方が別の男性、或は別の女性と仲良くなり、そちらに行ってしまうことは、不幸なことです。結婚によって「二人が一体となり、一人になる」ということは、夫も妻も半人前になるということです。結婚をして一緒になることは、1+1=2ではなく、1+1=1となります。この1を半分にすると、0.5になります。0.5と0.5がくっつくと1です。1+1の結婚ではなくなるのです。


 片方が死ぬと、結婚の誓いはそこで終わります。夫が死ねば未亡人は、再婚しても誰もそれをとがめません。法律もそれを認めています。夫との契約は、死によって完全に解消されるのです。そして新しい出発の再婚は、罪ではないし、神様に祝福されるものになるのです。問題は、結婚という形をとりながら、どちらか片方が別の人と結び合わさってしまうところにあります。律法は、私たち人類をイエス・キリストの福音に連れてくる守役である、とパウロは書きました。


 私たちが、頭だけで「イエス様を信じます。」と言い、教会出席をすることは、「自分自身」が生きた状態であり、まだ律法という力の中に入っているのです。律法は、私たちの罪汚れを徹底的に指摘してきます。


 イエス様を信じる時、古い性質はもう十字架につけられ、葬られ、今、私がいるのはイエス様の復活の体に合わせられる、ということです。英語ではidentify(アイデンティティ) と言います。イエス様と一体となって、永遠の生命に移された、ということです。とすると、片方(私)が死んだのだから、律法は、「待てー!」といって私を追いかけてくることはできません。私が死んだことによって契約が解消されたからです。

律法は、私を手放して自由にしなくてはいけなくなってしまいました。そして今、私が生きているのは、律法の力によるのではなく、イエス様によって新しく造られた私が、キリストの言葉によって生かされてゆくのです。これは一回聞いただけでは納得できないと思いますが、実は、良く知っている経験的な問題なのです。


 「私はイエス様を信じ、これから一切悪いことから離れる決心をした。ところが、友達に誘われ、商売をしていくうちに、また悪いことを始めてしまった。私はなんて罪深い人間だろう。」と、お考えになった経験はないでしょうか。(続く)

PageTop