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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(七一)

 「まして」という言葉を好んで使った伝道者は使徒パウロでした。ローマ五章九、一〇、一五、一七、二〇節と続きます。その他では、Ⅰコリント一二章に一ヶ所、Ⅱコリント三章九、一一節、そしてピリピ二章、ピレモン一六節、また学者によってはヘブル(パウロが書いたといわれる)九章、一二章とあります。


 新約聖書の中で「まして」という言葉は、一二回出てきますが、その中の五回がローマ人への手紙です。この他には出てきません。しかも、「まして」という言葉がローマ五章の中に頻繁に出てくるということは、どんなにパウロが神様の恵みと憐れみを強調したかったのかが分かります。

 これからの生涯でつまずいた時に、あるいは疑いを持つ時に、様々な悲しみを抱える時に、この言葉を想い起こしてほしいです。「まして」、必ず皆さんの日々の生活の中に大きな力となぐさめ、励ましをもたらして下さると思います。


 ローマ五章八節を見ていくと、「私たちがまだ罪人であったとき」とあります。

 私たちはそれこそ世の中の罪汚れにどっぷりと浸って、〝箸にも棒にもかからない〟ような、もう、めちゃくちゃな生活でどうしようもなく、救いようがない、ヤクザで、だらしなく、怠け者で、神様に逆らってばかりいた罪多き者です。

 すなわち、どこから見ても私たちは正しくないのです。


 戦後、日本に来た宣教師が、よく漢字を分解して絵を描きました。「罪」という字は四の下に非と書く。「非」は「あらず」で普段のことではありません。

 人間は、前から見ても後ろから見ても左から見ても右から見ても、良いことがないというのが罪です。四つの面から見て良いことが非ずということです、と。「非常」というのは普通の時ではないこと、「非」というのはNO(ノー)です。


 イザヤの表現を借りるなら、「罪」というのは神様が私たちをご覧になる時に、足の裏から頭の天辺に至るまで腫れ物とウミで一杯だという状態をさし、汚れに満ちた存在です。

 そんな罪人である私たちのためにイエス・キリストは死んでくださったのです。そして神様は、私たちに対する愛をあらわしてくださいました。


 これから結婚する方は、相手の男性あるいは女性に「もし、あなたが私を愛するなら、その証拠を見せてください。」という言葉を使うことがあるかもしれません。

 大体、日本人は愛情表現が不得手、非常に苦手です。「家内は私が愛していることは分っています。そんなことは言わなくても分っているんです。」と。でも、奥様は言ってもらいたいのではないでしょうか。 (続く)

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ローマ人への手紙(七〇)

 皆さんがローマ人への手紙を繰り返しお読みになる時、初めは何のことか分からなくても結構です。

 二〇、五〇、一〇〇回と読むうちに、使徒パウロが言わんとする中心的なことが何か、段々分かってくるはずです。


 これまで繰り返し申し上げてきたローマ書の三大テーマは何でしょうか。一番目は、「義認(ぎにん)」です。

 罪を抱えた私たち人間がイエス様を心にお迎えし、イエス・キリストの十字架を見上げることによって神様に罪を赦され、一度も罪を犯したことがないとみなされる「義認」ということです。


 二番目は、「聖化(せいか)」です。イエス様を見上げて毎日聖書の御言葉の中に生きていく時に、私たちは自分の努力ではなくして神様の御言葉によって日々に新しく、清く変えられていきます。

 この地上にあって私たちはどんなに自分の力で努力しても、完璧な人間、聖人になることはできません。「あの人は本当に何の欠点もない。」と言われる人は一人もいません。あり得ないことでしょう。


 三番目は、「栄化(えいか)」です。私たちの目指す所は、天の御国です。神様が御臨在なさる天の御国に行く時、私たちは地上における罪汚れが全く綺麗にされて、救いの完成を頂きます。

 イエス・キリストの御姿に似せられ、栄光の姿に変えられることから、「栄化」と言います。この「義認」「聖化」「栄化」という三つがローマ書の三大テーマとなるのです。ローマ書の勉強をする時は、このことを心に留めていただきたいと思います。


 十字架によって私たちは救われ、罪汚れから洗い清められます。そして、毎日聖書を読むことによって、私たちは神様の御言葉により知らず知らず清められ、イエス・キリストのお姿に似せられていきます。

 私たちの目標は、有名な伝道者に似るとか、あるいは牧師、あるいは宣教師の姿に似ることではありません。私たちは、「主イエス・キリストのお姿に似る」ということが最大の眼目であることを覚えてほしいです。そして私たちが望む所は、栄光の御国であることを心に留めていただきたいのです。


 私たちは今、五章一節の「神との平和を持っています」という聖句から「神様との平和」というテーマで勉強しています。

 今日、特に皆さんに覚えていただきたい言葉は三つの文字です。「あいうえお」の中の「ま」「し」「て」です。英語では "How much more" であり、「いわんや」とか「まして」、「これまであるものよりもっと大きな」ということです。

 より豊かに、より大きく、あるいはもっと加えて、ということです。聖句の引用が出ているコンコーダンスという本がありますが、これを見ると「much more」という言葉が一番多く出ているのが、ローマ書五章だそうです。(続く)

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ローマ人への手紙(六九)

 説教のやり方にも、いろいろなタイプがあります。

 聖書を順番に、一言一言勉強していく「講解説教」があります。大切な説教のタイプの一つです。

 「政治」、「恋愛」、「死」、「天国」といったテーマごとにする「テーマ(主題)説教」もあります。また、聖書の一部分をとって、そこからお話をするやり方もあります。そういう説教は「ちょうど私が必要としていたメッセージです」と聞く人にぴったり合う場合は良いのですが、「これはあの人に聞かせたい話だ」というケースが往々にしてあります。

 順を追って勉強する説教、その中に入っている御言葉からその奥行きの深さを探り、御言葉をしっかり勉強していくやり方は、教会建設に絶対必要な礼拝メッセージの学び方であると言われています。


 「読書百遍意おのずから通ず」という言葉があります。使徒パウロが書いた『ローマ人への手紙(=ローマ書)』は「聖書の教えるキリスト教とは何か」を端的に記した書簡だと言われています。指輪で考えるなら、指輪のダイヤモンドがローマ書であると言われるくらい、ローマ書は大事な書簡です。


 ローマ書は、さっと読んだ時には「分かり易い」「分かった」と思うのですが、実は大変難しい書簡です。私は、ローマ書を日本の神学校で勉強したのですが、納得できた所はほとんどなかったのです。米国に勉強に行きたかった理由の一つは、このローマ書をもっと理解したいという思いでした。


 内村鑑三氏が書いた『ローマ人への手紙の研究』とか、他にも多くの学者が書いた注解書があります。

 私は若い頃、内村氏の書いたローマ書の講解説教を読みました。その本は、毎週東京で行われた連続講解説教をまとめたものでした。宮内庁をはじめ、他にも大勢の役人が聞きに来たほどの名説教といわれました。しかし、その本の中にあるのは強いナショナリズムでした。私は聖書自体を勉強したくて色々な参考書を読みあさりました。けれども読めば読むほど難しい書簡だと思いました。そこでアメリカの大学では、選択できるコースの最初にローマ書をとったのでした。


 「濡れ紙を剥がすように」という表現がありますが、ボブ・ジョウンズ大学での勉強は、正にその言葉の通りでした。ローマ書の講義を聞く度に、「こういうことだったのか」と毎回、胸躍る想いで勉強しました。

 ローマ書の講義をなさった方はクルシュ教授でした。プリンストン大学で勉強なさり、更にいくつかの大学で研究なさった学究肌の先生でした。非常に分かりやすくローマ書を教えて下さいました。


 一九六三年、習志野バプテスト教会で伝道を始めた時、水曜の祈祷会で最初に勉強したのがローマ書でした。出席者は大学生一人でしたが、ローマ書の勉強を通じて彼は献身し、伝道者となられました。(続く)

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ローマ人への手紙(六八)

 結婚した夫婦は、婚姻届を市役所へ持って行きます。

 婚姻届を出しても、二人が一緒に生活する意思がないならば、夫婦とは言えないでしょう(例外は別として)。
 夫婦という形で性的に結ばれた時に初めて本当の意味で一つにされます。人は、父母を離れて、男と女が結ばれ一体となるとイエス様が仰せになりました(参照マタイ一九・三~六、テトス二・四~五)。


 「一つになる」。男女それぞれ違った身体であるけれども一緒のペースでこの結婚の喜びを味わった時に、本当に一つになった喜びが沸いてくるでしょう。
 婚姻届を出したという事実以外に、本当に自分達は一つの身体にされたのだという喜びがあり、結婚は婚姻届という「事実」と同時に「喜ぶ」という「感情」が深まります。したがって、結婚していても喜びのない夫婦ならば、むしろ重荷という状態かもしれません。
 クリスチャンはイエス様を信じて神様の裁きから逃れることができるという、聖書の戸籍謄本をいただくのです。
 毎日祈り、神様を仰(あお)ぎ見て、「神様がこんなに大きな祝福を下さったので嬉しい。」という喜びの感情が、信仰生活に表れます。「事実」は聖書のお言葉です。
 罪が赦され、神様が祈りに答えて下さり、生きて働いておられるということを実際の生活で感じ、あふれ出てくる喜びが「感情」です。


 イギリスのブラッケントレイツという所に、ウィリアム・ビクソンという人がいました。ある日、彼が住んでいるアパートのすぐ近くで火災が起きました。
 そのアパートには一人のお婆さんと孤児となった孫が住んでいました。お婆さんは色んな人に助けられて、火の中から逃れることができました。
 しかし、家の中には孫がまだいたのです。火の勢いはどんどん強くなっていきます。そんな中、ビクソンさんが建物の鉄の樋を伝って二階にいたその男の子を助け出したのです。


 しばらくして、このお婆さんが亡くなりました。孤児となった男の子を、誰がこれから世話するかが裁判所で審議されました。
 その町で養子にしたいという希望者が二人いました。一人は「息子を亡くしたので、この子をもらいたい」と言いました。ビクソンさんも同じように息子を亡くしたのですが、黙って裁判官の前に自分の手を差し出しました。
 何一つ彼は言う必要がなかったのです。火事の中で死にそうだったその子を助け出すために、彼は両手にものすごい火傷をおいました。彼はこの子に身をもって愛を示したのでした。

 イエス様はご自分の命を十字架におつけになり、神様の愛を私たちにお示し下さいました。これほどの愛に、さらにしるしを求める必要があるでしょうか。
 「神様との平和」。それは私たちがなお罪人であった時にキリストが私達のために死んで下さったことにより、神様は私たちに対する愛を表わして下さったのです。(続く)

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ローマ人への手紙(六七)

 イエス様を信じようとする時、いろいろな思いが交錯します。
 「もし自分が今、イエス様を信じてクリスチャンになったら、友達関係がなくなってしまうかもしれない。ダンスも、お酒もたばこも、何もかも駄目かもしれない。」という恐怖感が襲ってきます。
 そして、「自分には、とてもついていけない。」と思ってしまうのです。しかし、その戦いがある時に、「心配はいりません。貴方の力ではなく、私が貴方と共に戦います。」と、神様は私達の心に働いて下さいます。


 「神様との平和」をいただき、どんなに難(むずか)しい時にも神様が私と一緒に立っていて下さり、私と一緒に戦って下さるという信仰の歩みの祝福。イエス様は「私の軛(くびき)は軽い」とおっしゃいました。「軛」というのは牛二頭をたてて土地を耕す時に、首につける道具です。
 軛は、力の強い方がぐんぐん土を掘り起こして進むので、力の弱い方はただくっついていけばよい、と言われます。イエス様がその軛を負って下さる故に、私は力が弱いけれど、イエス様に歩調(ほちょう)を合わせて進めばよいのです。そのことを理解するのに信仰生活の中で私は数年かかりました。


 それまでは、牧会(ぼっかい)や勉強、聖書を読む、祈る、ということを「自分の力」でやってみましたが、挫折(ざせつ)や失敗ばかりで、とても信仰生活を全うできないと思いました。
 そういう肩肘を張った信仰生活から、裃(かみしも)を脱ぐことがポイントでした。ちょうど家に帰って洋服を脱いで、入浴して「あーあ、さっぱりした。」というのと同じです。神様の御前に「自分」という殻(から)を捨てて、素直に神様に従っていけるようになりました。


 神様は私たちの外側も内側もすべてご存知のお方です。人間には他人の外側しかわからず、心の中にどういう汚い思いが渦巻いているかはわかりません。「すると、主は彼に言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。』」(ルカ一一・三九)。


 旧約聖書の第一サムエル一六・七には「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」と書かれています。人は外の形を見、神様は人の内側をご覧になります。私達は、イエス様にいつも自分自身を素直にさらけ出し、飾ることは必要ありません。自分のあるがままの姿で神様に従う時に、本当の意味で、良心の咎めから解放され、また神様が私の罪汚れを赦して下さるという、その事実に根ざした立場の変化、神様の子供とされるという、「立場の変化」を与えられるのです。


 では、信仰は事実という「理性」であって感情は全くないのでしょうか。ある人達は非常に熱心ですが、「その熱心さが知識に裏づけされていない。」とパウロは指摘しました。クリスチャンは「感情」をいつも殺して抑圧しなければいけないのでしょうか。そうではありません。(続く)

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